そのため息に終わりはあるのか


最近、ため息をつくことが多くなってきた。


朝、昼、晩。

時間帯を問わず、無意識のうちにため息がこぼれる。口から吐くため息に限らず、鼻から息を抜くため息もつく。


『ため息をつくと寿命が縮む』『ため息をつくと幸せが逃げる』という迷信は小さい頃からよく耳にしていた。もしそれが本当なら、今頃私は死んでいるに違いない。そのぐらいため息をついている自覚がある。


しかし、どうしようもないものはどうしようもないのだ。瞬間的に緩む方法をそれしか体が知らないのだから。


身体的な疲労もあるかもしれないけど、どちらかというと精神的な疲労のほうが強いのかもしれない。

こちらのことなど考えもせずに無茶ぶりをしてくる、そんな苦手な人と密接に関わらなければいけないので、勤務中は気が張っているのかもしれない。苦手な人が休みの日は精神的にもすごく楽なので、やっぱりそうなんだろう。

そのせいか、終わった後はくたくたになっているし、帰りは乗り物のなかでうとうとしてしまう。帰ってからなにかしようにもエネルギーをほとんど使い果たしているので、20時を過ぎたぐらいからすでに眠たくなってしまう。しかも朝も早い。

朝も朝で、通勤の時間帯は目を閉じて寝ていることが多くなったし、昼休憩の時もご飯を食べたらあとは寝ている。人と話すことは好きだけど、人と関わりすぎると疲れてしまうので、少しでも余力を残しておきたいのだ。いや、最近はそうしなければ追いつかないぐらいになってきている。

そして帰ったらあまりなにもできずに就寝時間を迎える。疲れは蓄積される一方。現状を打破するための種蒔きもまともにできていない。本当にこんな毎日でいいのだろうかと不安も募ってきた。


生きていくためにはお金が必要だし、いまのこの厳しいご時世で、仕事があるだけでもありがたいことは痛感している。少なからず、地域に、ひいてはこの国に貢献できていることも、悪い気はしていない。

でも、いつまでもこの仕事を続けることはできないだろうなとも感じている。こちらから切り出すにしても、向こうから切り出されるにしても、いつか終わりを迎えることになる。


そうしたら、私はどうなるのだろう。


このご時世で再就職先が見つかるのだろうか。

ましてや、職場運と同僚運に恵まれない状態が続いて職歴が多くなりすぎてしまった私を、(小さくなってきたとはいえ)爆弾を抱えている私を、預かってくれるお人よしなどいるものだろうか。少なくとも、一般企業はまず「扱いづらい」と煙たがるだろう。

仮に面接に呼ばれたとしても、これまでのトラウマから面接という場が怖いので、その時点で素の自分は出せなくなってしまう。


それに、誇れるような実績もない、持たざる者の私が自分でなにかできるのだろうか。

もともと、『普通』側の人間から煙たがられて日陰に追いやられてきた私は、世渡りや社内営業が上手いわけでもない。それゆえに、後輩に慕われているような人たちとか、『〇〇には自信があります』とか『〇〇が楽しい』と言っている人たちが、まるでハイビームを向けられた時のように、直視できないほどにものすごく眩しく見える。

noteでもそういう人たちをよく見るので、なおさら「そちら側に行けたらなにかが変わったんだろうか」と疲れた頭で考えてしまう。


. . . 考えただけで憂鬱になってくる。


まともに行動に起こすエネルギーもない。

ただ生きるために日々を生きる。

行動に起こしたとしても、新しい環境に移れる自信もない。

かといって、今の環境に居続けるわけにもいかない。

遅かれ早かれ、離れる時は来るだろう。むしろ、できることに自分なりの区切りをつけたら、離れたほうがいいのかもしれない。


やるべきことはたくさんあるけど、エネルギーが追いつかない。

職場に行けば気は張るし、家に帰っても今度は行動に起こすためのエネルギーが尽きている。最近は余力の問題でnoteの更新もしんどくなってきた。

このままなにもできないまま燃え尽きないことだけを祈りながら、今日も命を燃やす。


そして、わずかばかりの弛緩のために、今日も私はため息をつく。

そのため息に終わりはあるのだろうかと、外の景色を遠い目でただ眺めながら。


記事を気に入ったらコメントで感想をいただけるととても嬉しいです!(スキは訳あって苦手になりました。ごめんなさい。) サポートは『寄付・サポート資金』または『より充実したコンテンツをお送りするための資金』として大切に使わせていただきます。