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その言葉に愛はあるのか


最寄り駅直結のスーパーに寄った、帰り道のこと。


最近朝に食べていた大麦フレークがなくなったので、代わりのフレークを買いに、シリアルコーナーに行った時のことだった。

無添加のコーンフレークに手を伸ばそうとした時、隣にいた壮年女性のiPhoneのスピーカーから、関西弁の男性の怒鳴り声が聞こえてきた。


「お前今どこにおんねん」

『買い物きてるけど』

「買い物きてるちゃうぞボケェ!しばくぞお前!ふざけとんのかアホ!!」


なぜこの場所でスピーカーでわざわざ話すのかという点に突っ込みを入れたい気持ちは一旦置いておくとして、どうやらただごとではないことは怒鳴り声ですぐにわかった。

そして、その男性がなにやら訳ありも訳ありな人間であることも。

電話越しに響くその怒鳴り声がしばらく続いた後、男性は一方的に電話を切ったようだった。


その間、女性は何度か電話を切ろうと、通話を終える赤いアイコンに親指を恐る恐る近付けようとしていたのを、私は男性の怒鳴り声に辟易しながら横目に見てしまった。きっと、ここで勝手に切断しようものならまた後で酷い仕打ちを受けるか罵声を浴びるに違いない。そう彼女は知っていたのだろう。

しかし、女性のiPhoneに表示されていた男性の登録名は「〇〇ぽん」と、その怒鳴り声からはまったく想像もつかないような、かわいらしい愛称だった。


あぁ、これは依存か。DVか。昼ドラのようなワンシーンをまさかこんなところで垣間見るとは。同情のような。男性に対する不快感のような。そんな複雑な心境に、私の口も渡部篤郎が時折見せるような『への字』に歪んでしまった。


「大変ですね . . . 」と言いたい気持ちはあったけど、それは相手を余計に参らせるだけだろうと思って、ズキズキする気持ちはありながらも胸のなかにしまっておいた。もっとも、状況を詳しく知らない部外者が余計な口を挟むものではないのだけど。


そのやりきれない気持ちが表に出た、なんともいえない表情でその女性はシリアルコーナーを後にした。



「関西人の『アホ』と『しばくぞ』は愛がある」


こんなお決まりの"テンプレ"をちらほら耳にしたり目にしたりする機会はある。


しかし、だからといって、むやみやたらに口にしていい理由にはならないし、なにを言っても許されるということにもならない。

傍から聴いても(聴かされても)不快にしかならないトーンで言われているそれは、「死ね」「殺すぞ」という意味も同然にしか思えなかった。家に帰ったらそれこそ、DVでも始まるんじゃないかという非常に暴力的なトーンだった。


その人たちの関係をすべて見てきているわけではないから、どちらが真に悪いかをその一部だけで断言することはできないけど。

少なくとも、その言葉に"愛はない"ということはよくわかった。


結局、自分たちが好んで口にすること(あるいは、物心ついた頃から口にするのが当たり前だったこと)を正当化するためのテンプレでしかないのだろう。

同じ言葉でも、愛があるかないかは言い方によっても、状況によっても変わる。


「関西人だから」とか「関西人の口にする〇〇は愛があるから」とか、そんなことは関係ない。


本気の「死ね」という意味に変わった「しばくぞ」を"関西人だから"言っていいわけではない。「ふざけてんじゃねえぞこのアバズレが!」と言いたげな「アホ」や「ボケ」を"関西人だから"言っていいわけでもない。


その言葉に愛があるかどうかは、結局のところ、人と言い方次第で決まるのだ。


もちろん、私はその二人の事情を事細かに知っているわけではない。もしかしたらその女性にもなにか落ち度があるのかもしれない。たまたま男性の虫の居所が悪かった可能性もあるし、溜まりに溜まった怒りが爆発した可能性もある。


とはいえ、控えめに言っても不快でしかないその物言いを耳にして、免罪符のように口にされている「関西人の〇〇は愛があるから」について考えてしまった、日常のある一コマだった。


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