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人生の交差点で、入れ替わるように"椅子"に座る人たち


最近、リアルでもネットでも人間関係の入れ替わりが起きている。


それほど関わりがあったわけではないけど続いていた。そんな関係もいつかは終わりを迎える。ある時はあっさりと。またある時は無慈悲に。


先日、風の便りで私の知り合いが亡くなったということを知った。顔見知り程度のつながりではあったけど、ひとつの関係が知らない間に終わりを迎えていた。病状が深刻だったことは知っていたので、特別悲しんだわけでもなく、「あぁ、とうとうその時が来たのか」と淡々と思った。もう助からないことを知った時になにを感じて、死ぬ間際になにを思って息を引き取ったんだろう、と。


ひとつの関係が終われば、穴を埋めるように、またひとつ別の関係が始まる。


一方、ネットでも出会いと別れは訪れる。ただ、指ひとつで簡単に決められるネットの場合、関係が希薄になりがちだ。


Twitterのようなソーシャルメディアはまさにその典型。そればかりか、言葉が誇張されて映りがちなので、見るべきではなかった言葉を目にした途端に、指ひとつでその関係ごと両断したくなる衝動に駆られることも、これまで続けてきた人ならあることだろう。


そんなソーシャルメディアでも、人間関係の移り変わりの瞬間を実感する時がある。私にも最近あった。


ソーシャルメディア上とはいえ、その人とはそれなりに長い付き合いだった。前は共感できる発信をしていたと思っていたのが、ある時から別人のように変わっていた。「しばらく見ないうちに、ずいぶん強い言葉を使うようになったなぁ」と強い違和感を覚えた。えらく説教臭くなったな、とすら感じた。


その人のアカウントは急成長を遂げていた。このコロナ禍を生き残ることに必死で余裕がなくなっているのか、あるいはスタイルを変えたのか、それはわからない。それでも、私がかつて魅力を感じていた部分が失われてしまったように感じた。


知り合った当時は、他であまり見かけない、理解のある人という印象だったのが、結局フォロワーの多いインフルエンサーたちと似たり寄ったりな発信スタイルになってしまっていた。人によっては「数字のために多数派に寄せたな」と思うんだろうけど、「あぁ、こうやって人は変わっていくんだな」という瞬間を目の当たりにした気分だった。


きっと、それだけ必死にもがいているんだろうと思う。こんなご時世だから、生きていくのに精いっぱいな人も多いし、これからさらに多くなっていくことだろう。それでも、どこかギスギスしているようなトーンで紡がれた言葉の数々を見て、私の心がスーッと熱を失っていった。


それは悲しみだろうか。あるいは、失望だろうか。それとも、興味の消失だろうか。


いままでストンと嵌っていたはずのパズルのピースが、形を変えていく穴の違和感に耐えられずにミシミシと音を立てて、パキッと音を立てながら弾け飛んでしまった。


「あぁ、もう私たちの縁はここまでなんだな。」と思った。


ある時から違和感を覚え始めて距離を置いていたから、恐らくこの関係は遅かれ早かれ終わる時が来るだろうという予感はしていた。


距離を置いていたといっても、名残惜しい気持ちがなかったといえば嘘になる。いざその瞬間を迎えると、それなりに付き合いがあっただけに、「ついにこの時が来てしまったか」と少し堪えるものがあった。でも、私たちの価値観はもはや共鳴しなくなっていた。波長が合わなくなったか、ある役目を終えた期間限定のご縁だったんだろう。私は「ありがとうございました」と静かに別れを告げた。


人は変わる。時間が経てば価値観は変わっていくものだし、SNSでもアカウントが大きくなっていくにつれて発信スタイルも大なり小なり変わっていくものだ。その人らしさを売りにしていた人が、その人らしさをなくしたbotのような発信を始めたら、違和感を覚えないだろうか。

今回はそれと同じでないにしても、起きた変化自体は似たようなものだ。変化が起きたタイミングで、合わなくなったと感じて離れていく人はどうしても出てくる。今回は、私がその一人だったというだけのこと。


でも人生とは面白いものだ。ある人間関係が終わりを迎えると、埋め合わせるように新しい関係が始まったり、疎遠になっていた関係が戻ってきたりする。


ある別れを迎えて間もなく別の人と再会したり、新しい出会いがもたらされると、「世の中うまいことできてるんだなぁ」と感心してしまう。こうした人間関係の入れ替わりを目の当たりにすると、この世界にはなにか不思議な力が働いていると感じる。それは『正負の法則』か。『トレードオフ』か。それとも、神々の悪戯(あそび)か。


席が空いたところに別の誰かが座る。そして、時が来たら席を立って、また別の誰かが座る。さながら、人生の交差点で移り変わる様子を見ているようだ。


合わない人間関係を無理につなぎとめていてもお互いにとって良いものにはならないし、より自分に合う、新しい人間関係の始まりを妨げることにもつながる。なぜなら、いまの自分の身の丈に合った"人間関係の椅子"には限りがあるからだ。誰かを座らせたいなら、いまその椅子に座っている誰かに立ってもらう必要がある。その時に必要なパズルのピースの形も変わっていくものだ。


こうした人間関係の新陳代謝も、私たちが進み続けるためには必要なんだろう。これまで環境とステージが変わるたびにそうしてきたように。


「じゃあ行くよ。ここから先はよろしく。」

『わかった。気をつけて。』


人生の交差点に立ち寄った人たちが席を立って、それぞれの道に漕ぎ出していく。その時にすれ違った別の誰かにバトンタッチしてつないでいく。人生とは常に流れゆくもの。諸行無常。ずっと同じようにつなぎとめておくことはできない。


名残惜しい時もある。「いつから噛み合わなくなってきたのか」と遠くを見ながら考えてしまうことだってある。でも、歩き続けるとはそういうこと。旅をするとはそういうことだ。こうやって数多の出会いと別れをこれからも繰り返していくんだろう。いままでそうだったように。


なにかが終わるということは、別のなにかがこれから始まるということ。

表裏一体。ふたつは同じもの。


それはつまり、お互いがそれぞれの道を進み始めたということ。


だから、これでいいんだと思う。



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