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食事に向き合うということ


スマホを見たり、いじったりしながら食事をしている人が増えた。


一時期、時間の有効活用とばかりに私もそうしていたことがあるけど、ある時ふと疑問に思ったことがある。


「食事とは命をいただくこと。それが作物であれ、動物であれ、時間をかけて育ったものをいただいている。それなのに、こんな失礼な食べ方をしていいんだろうか。」と、急にハッとしたのだ。


そして、周りでスマホを見ながら食べている人を見て、その異常さに血の気が引くような感覚を、体で確かに感じたのだ。


まるで、「目の前にあるこの命になんて興味ありません。」「私はこのスマホの方が大事です。」「SNSのほうが大事です。」「満たされることのないSNSでの欲を満たすことの方が大事です。」と、いただいてる命に感謝することなく、ただ流し込むだけの存在であるかのように。



なにが「いただきます」だ。

なにが「ごちそうさまでした」だ。


いただいている命のおかげで今日も生きながらえているというのに、本当に感謝しているというのか。私は本当に感謝していたというのか。


思えば、スマホは生活を便利にした反面、人間の異常性も助長してきた。


食事が運ばれてきたら、写真を撮ることに夢中になって、肝心の食事は雑に扱う、『インスタバエ(蝿)』と揶揄される人たち。

誰かが倒れていても、救急車を呼ぶこともなく、SNSで脚光を浴びる格好のネタが現れたとばかりに囲んで動画や画像を撮る人たちすらいる。

今回のように、片手でスマホをいじりながらもう片方の手で食べ物を流し込むような人もそうだ。


そんな異常な一人になっていた私自身を、私は恥じた。


それ以来、私はスマホをいじりながら食事をするということはなくなった。

時間を見るのにスマホを手に取るにしても、一旦箸は置いて中断してから見る。ひとつの作業に向き合うためだ。


私たちだって、真剣に話しているところを、「あー、うん、そうだねー」と相手がスマホをいじりながら、スマホから目を離さずに言われたら、ぞんざいに扱われていると思ってしまうはずだ。それと同じようなものだ。


食事は写真をパシャパシャ撮るためだけにあるわけではない。流し込むだけにあるわけではない。


五感で味わうためにあるものだ。

究極的には、今日を生きながらえるための行為だけど、奮発して美味しいものを食べに行くのも、五感で味わう時間を楽しむためだ。


だからこそ、食事という時間に丁寧に向き合うのだ。

写真を撮ることが悪いとは言わない。記念に残しておきたい気持ちもよくわかる。でも、写真を撮るのは許可はしっかり取った上で手短に済ませて、あとはスマホを一旦置いて食事にだけ向き合う。そして、命をいただいているという感謝の気持ちを持ちながら、心して味わう。


当たり前のことのようだけど、テクノロジーが劇的な進化をもたらした今の時代は特に、しっかりと向き合えている人は少ないのではないだろうか。


命に感謝をする。

そして、雑念(スマホ)を隅に置いて、五感で味わう。


私自身も、これからも変わらず気をつけるようにしていきたい。自戒を込めて。

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