ミャンマーでの暮らしをつづる:ミャンマーを働く場所として選んだ理由

ミャンマーに渡航して、1ヶ月がたちました。

どんどん暑くなるミャンマーです。水を部屋のタンクに引き上げるポンプが動かなくなって水道が止まってしまいました。断水すると水のありがたみが本当にわかります。

日本語教師として、現地法人に直接採用されて2019年3月から働いています、ななこと申します。

日本で会社員兼ポートレートモデルをしていた私が、ミャンマーで働くことになった経緯やミャンマーでの生活について書きたいと思っています。

3回目は、私がなぜミャンマーを働く場所として選んだのかを書きます。



日本語教師養成講座に通いながら修了した後のことを考え始めたのは、養成講座がスタートして1ヶ月たったころでした。


日本語教師として働くにも様々な選択肢があります。

国内の日本語学校

国内の企業研修

国外の日本語学校

日系企業の海外支社

国際交流基金の日本語パートナーズや海外青年協力隊員などの公的機関からの派遣

などなど他にもありますが、おおまかな分類としてはこのぐらい。

私の1番の希望としては、海外で働くこと。

そう思うまでには前職でとても色々あったのですが、書くとびっくりするぐらい長くなったのでささっとスクロールください。

前職で認可保育園の事務員をしていた私ですが、上司から保育士だから分からないの一言で仕事と責任を丸投げされ続けた結果、自律神経失調症になり睡眠障害やパニック発作が出るようになりました。半年近く通院しながら勤務していたのですが、睡眠障害が少しひどくなり2018年2月に休職診断書を法人に提出しました。そこで理事職の方も動いてくださったのですが、上司本人は何も変わらず、役所相手の仕事は期限や規則もあり私は休職中も結局出勤していました。そんなことをして症状がよくなるはずもなく、通う子どもたちがかわいくて頑張れていたのにそれすら思えなくなり、2018年9月退職届を提出しました。限界でした。仕事が出来る出来ないに関わらず年齢だけで園長や主任という肩書きがつくこと、保育士だからという一言で肩書きに見合う努力をしなくても許されること、日本人のだけのなかで働くのはもう無理だと思いました。電車の中で数回倒れたときに車掌さんや駅員さん以外助けてくれる人も声を掛けてくれる人がいなかったことも怖かった。一種のトラウマ。もちろん、たまたま私のいた環境がよくなかっただけでちゃんとした企業も助けてくれる人もたくさんいるんだと思います。でも、私にとっては海外で働きたい、海外で暮らしたいと強く思うには十分な要素でした。


では、海外で働くとしてどの国に行くのか。行けるのか。

国内の日本語学校では、国立や難関私立の大学院を目指す中国人、専門学校などに進学してその後就職を目指すベトナム人が多いです。日本にすでに彼らが来ているということは、現地での日本語教育の需要ピークは過ぎているということでもあります。国外での日本語教育は、日本の入国ビザをもらうための一定レベルの日本語を身につけてもらうという役割を担っているからです。



と、書けば色々と理由はたくさんあるのですが

なぜ海外働くこと、ミャンマーを選んだかを一言で言うなら

森崎ウィンが好きだから

大阪にいてもライブが年に1度あるか、その年に1回のライブも欠席なら、いっそのことミャンマーに行けば、日本にいるよりウィンくんが見られると思い立ったからです。

とても不純な動機でミャンマーの求人を探しながらも、未経験ですぐに海外採用されるとは思っていませんでした。

しかし、練習と思って初めて応募した求人の書類選考が通り、Skype面接で馬鹿正直に不純な志望動機を話し、面接ってこんな感じかと余韻にひたりつつ受かるわけないしなと思っていた2日後に採用通知メールが届きました。

2018年12月のことでした。養成講座もまだ折り返し地点まできたところでした。

養成講座をコーディネートしていた先生からも、他校でも養成講座を担当している先生からも、異例だとその後ことあるごとに言われる速さで採用が決まったのでした。

あまりにも事がうまく進み、まわりからもそう言われ、私は本当にミャンマーに行くのだろうか行けるのか浮遊感がずっとありました。


採用通知から実際に赴任するまでは、次回書きたいと思います。


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