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発信するということ

発信することが正しいのか、いつも不思議におもっているけれど考えるのをやめてしまうので、いいタイミングだと思い考えることにした。

まず、私は広告が嫌いである。
その情報、いらないよ。そういうものがたくさんあるのだ。
美しくなるための化粧品や洗顔。コンビニスイーツや新作のペットボトル飲料。知らないクラウドサービスの宣伝。
なにもかもがうるさい。私には関係がないし、その商品をおしつけられる感覚が苦手だ。そもそも誰かの意図に乗せられて購買という行為に結び付けられるという、他社の思い通りに動くのが嫌なんだと思う。そこに企業の営利活動の思考が感じられてしまうから。もちろん、その購買が自分を幸せにすることもあるのだから、一概に悪いとは言えない。
でもテレビの宣伝も、雑誌の広告も、電車の映像広告もすごく苦手。
「常識」を押し付けられる気がする。
イベント」の告知は好き。パン屋さんとかリアル店舗の飲食店の広告も好き。旅や美術展の広告も好き。苦手なのは、美しい女優が素顔で化粧品の宣伝をしたり、食べ物の広告でおいしそうに見えるもの、脱毛や整形の広告が苦手だ。

結局、自分が見たくないものを無理やり見せられるのが嫌なんだ。
美しい人を見ると劣等感に押しつぶされそうになる。私が広告のものをつかっても、そうはならない。
脱毛、整形、そうやって見た目に執着するのは息がしづらくなる。見た目に関するものは自分が求めているときにしか見たくない。
食べ物の広告は、どうせカロリーが怖くて食べられないものへの羨望を喚起するからみたくない。たべたくなるのはむなしい、苦しい。

広告って、その人が求めていない情報を無理やり見せるという側面があるから私は苦手なのだ。
私は見た目に関するもの、食に関するものを見たくないのに、むりやり見せられる。

でも、小さなお店、パン屋さんやカフェの広告は嫌じゃない。
大企業による大々的な宣伝は、そこに企業の利益追求活動の思いを感じさせるからいやらしい。小さな企業だと少し応援したくなる。
こんな複雑な心情があったんだなぁ。顔の見える誰かなら応援したくなるけれど、顔も見えない大企業のだれかを応援したいとは思えない。自分が買っただけではなんの影響力もなさそうだし、無力感も手伝って苦手。

私は発信したい人間であるけれど、この情報を求めている人にだけ届けたいなと思う。無理やりな広告はしたくない。世界中、発信で溢れている。
ネット広告、テレビCM、SNS、Youtube。
何が正しいのだろう。
どれなら誰も嫌な思いをしないのだろう。

こんな弱い自分に言いたい言葉。どこかで聞いた言葉。

「誰かを傷つけない文章はない。
だれかを傷つけてでも伝えなければならない想いを言葉に紡ぐんだ」
と。人を傷つけることは、ほんとうに嫌だし申し訳ない。
けど何かを成し遂げるためには、避けることもできないのかなとも思う。
私は苦しくても、傷つけた人の分の苦しみを背負う覚悟を持って、発信してみようかなと思う。
やらない言い訳を探すのではなく、とにかく形にすることを恐れずにやる。
傷つけても私は発信しないではいられない。
だって自分のなかにこんなにも言葉が溢れているのだから。
紡がないと私が壊れてしまうのだから。

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