見出し画像

かつてはそうだった。

公園が主な生息地だった。
いかなるときも。公園のど真ん中をいっていた子たちだった。

「公園いきたい」という四歳の願いを叶えるべく久しぶりにやってきた。

目につくのはよちよちあるきの子やお友達がこいでいるブランコに突進する子(をお母さんが止めていた)。お母さんのお膝でブランコに乗る子。

我が家はというと、娘は1人でブランコをこぎ、遊具にあきた息子は無心で石を割っている。私は木陰で本を読みながらチラチラ目をやって、彼らはたまにわたしに駆け寄っては何やら喋っては、また持ち場に戻っていく。


もう、彼らには常に差し伸べられる「手」や一時も逸らしてはいけないような「目」はほとんどいらなくなった。(ことに気づく)

転ばないように身体を支えることも。
お友達が漕いでいるブランコに突進しないように必死について回ることも。
まだ乗れないブランコにお膝の上で乗せてあげることもない。

「かつてはそうだったもの」が公園の中の構成要素の主なシェアを占めていた。

ふと視線を公園の端にやると、5,6人の青年グループが缶蹴りをやっていた。もちろん彼らには見守る目はひとつもない。

次は、きっと彼らのように。
通ってきた道と、これから通るであろう道が交錯する夕暮れの公園。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?