リリのスープ 第二章 旅のはじまり

ナディンは、持ってきていた車に、リリのスーツケースを入れ込むと、運転席に乗った。
リリは手短にデイと子供たちへの別れを済ませていた。
リリは子供たち二人と、ハグをして、二人の髪をなで、頬を寄せて長く抱きしめていた。
彼女にとって子供たちは生活のすべてであり、そして、有り余る彼女の愛をそそぐ終着地だった。
彼女にとって、子供たちとの別れが一番辛そうだった。
二人の頬を手でつつみ、両目を覗きこみながら、何か話しているようだった。
子供たちとしては、小さな頃から物分りがよく、二人とも彼女のとる突拍子もない行動の数々をいつもそれとなく受け止めているような達観した精神を持ち合わせていた。
デイには、軽いハグと、頬にキスをすると、二言三言言葉を交わしたかと思うときびすを返し、満面の笑みをうかべて車の助手席に乗り込んできた。

シートベルトをすると、ナディンの方を見上げて

「行きましょう!」

とはずむような声色で言った。
バックミラーに映る、デイと子供たちは、塀の角を曲がるまで、手を振っていた。
その姿をみるだけでも、子供がいないナディンですら、涙が出そうになり、鼻が痛くなった。
リリは、窓に肘をついてサイドミラーで、ちょっと確認すると、後は見なかった。
彼女なりの別れは、キッパリしていた。


車を走らせて、最初に向かったのは、ナディンの自宅だった。
リリの家に向かうまで、自分が今日から旅にでるなんて思ってもみなかったからだ。
ナディンは、アパートに戻り、自分の着替えを整理しだした。

アパートは、学生の頃から使っている古い建物だったが、中庭などがあり、室内も整備されて、使いやすくなっていた。
引っ越そう引っ越そうと最初のころは考えていたが、その建物の雰囲気が古びた感じや、窓辺のサンが古くなり傷ついている様子や階段の手すりのレトロなところなどが、だんだんと味に見えてきて、そのまま気づくと10年以上もいついてしまっていた。大家さんもいい人で、何かとナディンを娘のように可愛がってくれているのだった。
もちろん、リリは何度も来たことがあり、来るたびに、その古さのことに、一文句付け足すのだが、その後はなんだかんだいって、彼女自身が、お気に入りの窓辺の椅子にもたれて、ぼんやりと外を眺めくつろいでいるのだった。


部屋に入ると、リリは、

「階段の手すりの木がギシギシなって、くもの巣が張っているわよ」

と渋い顔で言い、いよいよ崩れるそうねと、くすりと笑った。
ナディンは、リリの言葉を聞こえないフリをし、自分が持っている一番大きなスーツケースに荷物を詰めていった。
ナディンには、もって行くような小物などはないために、ケースは二つで済んだ。
しかし、二週間も家をあけるとなると、水周りや冷蔵庫なども心配だったので、そそくさとキッチンに向かい、戸棚や食材を整理し始めた。
それから、水道やガスの元栓をしめると、通帳や財布の入ったものをカバンにつめこんだ。
ナディンにとっても、今回のような旅は初めてだった。
車で行くにしても、風まかせの旅であり、どこに向かうか、何が待っているかわからないのだから、蓄えをもっていくのは気持ちを落ち着かせるためでもあった。
自分にとっても、何があるかわからない旅なのだから。

リリは、窓辺に立ち、遠くの景色を眺めていた。
いつも座る椅子には、座らずに、遠くを眺める姿には、旅立ちの時を知らせているようだった。

「行きましょう!」

今度は、ナディンが言った。
リリは、振り返り、ニコッと笑った。


車に乗り込み、まずは、国道に出ることにした。
何もない、のんびりした田舎道を、舗装されていないガタガタ道を進んでいった。
何年も慣れ親しんだ、穏やかな風景も、今日はこの街を離れると思うと、どこか違ったものに見えた。
ナディンは、それを旅立つ自分たちに、風景が『もうお前たちはこの町を出て行くのだから、親しみなんぞ沸かせない』といってソッポを向いているように感じた。
いつもは、見慣れた標識だろうが、こういうときは、その標識すらどこかよそよそしく自分に接しているように感じる。

ナディンは、リリをみると、彼女は別のことを考えているようだった。

「ねえ、これからどこに向かえばいいの?」

ナディンが聞くと、リリは言った。

「そうね、とりあえず海がみたいわ。海のある街にでましょうよ」

そこで、二つほど山を超えたところにある綺麗なビーチのある街に向かうことにした。

平坦な田舎道をすぎて、国道にでると、世の中にはこれほどたくさんの車があるのかというほど、走っていた。
ビュンビュン飛ばしていく、車たちにナディンは、運転する手も震えそうだった。
自分たちは、何もそこまで飛ばして急ぐ予定もないのだから、ゆっくり確実に行こうと思ってからは、気持ちも落ち着いた。

リリは、国道を走る車や、流れる景色、遠くに見える山脈に、目をクリクリさせながら楽しんでいるようだった。
ナディンは、その様子をみて、今回のことは結構骨が折れたけれど、気分転換になっているようで少しほっとしたりした。
しかし、車の多さや、田舎道ばかりで慣れていない運転の疲労から、ナディンは、国道を離れることにした。
国道を離れると、海辺の町までは少し遠くなる。
本当は、運転を変わって欲しいのだが、リリは免許どころか資格というもの何も持っていないのだった。

「はあ、疲れたわ。平凡な街ばかり運転していたから、国道を運転するのって疲れるわ。
リリ、あなたがせめて免許を持っていたなら、変わって欲しいくらいよ」

そう、やっかみを言うと、リリはコロコロ笑って、

「あら、車の免許なら持っているわよ」

「え?そうなの?いつとったの?」

あら、といって、笑い

「学生の頃にとったわよ」

と言った。ナディンはビックリして、

「そうだったの?知らなかったわ。じゃ運転できるのね」

と言って、今回の旅が運転手にならなくて済むとホッとしたが、

「一度も、乗ったことないのよ」

と言って、ウィンクした。
ナディンは、想像通りの答えのような気もして、ガッカリした顔を見せた。
リリは、その様子に、少し気を使ってか

「あたしこの機会に、運転してもいいわよ」

と言ったが、彼女自身その自信はなく、ナディンもまだローンが数年残っている車を台無しにはしたくなかったので、
「別にいいわよ」

といって、エンジンを掛けなおした。

あたしが、リリに何か期待するほうが間違っているってもんだわ。
この子は、なんだかんだいったって、お姫様なんだから。

そう心の中で、毒づいた。

リリはその後も、申し訳なさそうにもしていたが、車から見える景色がやはり新鮮だったようで、ドライブを楽しんでいた。

山道に入ると、急な斜面にどんどん道が狭まっていく。
木々が覆いかぶさるような山道を、ゆっくり車で登っていく様子が、リリにはたまらないようであった。

「あたしたちの街にも、山はあるけれど、ココの山は、まったく別ね」

リリははしゃいでいるようだった。

「うちの街にあるといっても、こっちのほうが、大きいれっきとした山よ」

ナディンがいうと、リリは、うなづきながら、

「この道から見える、木々が、なんだかうちの山にあるのと違って、強いゴテゴテした表情をしているわ。とっつきにくいような」

はしゃぎながら窓をあけてリリは眺めていた。

「ん~でも、あたしは、うちの街にある山のほうが、穏やかで仲良く慣れそうだわ」

生えている植物も、大きな山特有の、人を寄せ付けないような、凛とした出で立ちだった。
松や杉で覆われている山道を抜けて、やっと下り坂にやってきた。
そこにある木は、地元にあるような、人の手に触れて育ったものではなく、山々の深い山林の中で成長した人に触れられることのない宿命であり、それは、一種の山の掟の中に生きているような潔さや威厳を感じた。

リリは、そのことを言っていたのだと思う。

ナディンはそのまま車が山道を下るのに任せた。
どんどん下っていくと、その先に、うっすらと明かりが見えてきていた。

山林の中を進んでいたために、気づかなかったが、日暮れが近づいていた。
夕暮れに、明かりをともした家々が、並ぶ山間の集落が見える。

リリもきっと同じことを考えているだろうと思いながら、

「今日はどこに泊まろうか」

というと、リリは、

「海の見えるところで泊まりたいわ」

と言った。
ナディンは、運転の疲れもあって、

「ねえ、海の見えるところまでは、あと一つ山を超えなきゃならないのよ。もうこんなに日暮れだし、今晩はこのあたりのどこかに一泊させてもらいましょうよ」

というと、リリはしぶしぶオーケーした。

リリは昔から、こうと決めたらやる質だった。だから自分のできないことや、やれないことがあると何が何でもやりたくなるのだった。けれど、長年、歳をかせねてゆくうちに、できないこともあることを受け入れることができるようになっていた。子供と同じかもしれない。しかし、子供と根本的に違うのは、すべて彼女の原動力は、本人が思っている以上のロマンチストである所から始まっていた。
彼女にかかると、日常の一切は、きらめきだし、輝いて、自分を王女様にすることもわけないことだった。
そこで、無限に浮かび上がる彼女だけの空想を描いて、過ごすことが上手だった。
その中では、すべて万人に愛される姫君や、切ない思いをいだく王女や、彼女の想像力にかかった主人公がやってきては、彼女の生活を給仕するのだった。
美しい想像力も、ひとたびリリの手にかかれば、永遠の命が授かるようだった。
しかし、ずっと家にいてばかりで、家事や子育てに追われているうちに、その想像力もだんだんに色あせてきてしまっていた。そのことを彼女自身が、悲しく思っていたのだった。
空想ばかりしているリリにとって、友達といえるのは、ナディンだけだった。
彼女の語るロマンスの話は、現実に生きているものたちにとっては、絵空事であり、虚無でしかなかった。
そのズレを、本能で感じるように、彼女も他の場所では話さなかった。

ナディンは、自分がいなければ彼女は、どうしようもないのではないだろうかと思い始めていた。
歳をかさねていくうちに、人はいろんなものを受け入れ吸収し、取捨選択を繰り返していくものだが、リリの持っている想像の力は、子育てでいそがしくなったとはいえ、根本は色あせることはなかったのだった。
そのことに、ナディンは、敬虔な気持ちをもちながらも、危うさも感じずにはいられなかった。

この子は、このままいったら、あたしという存在がいなかったら、自分のロマンスや想像を話せる場所がなくなるのではないか。
きっと、この子にとったら、その力を封じて周りと調和しようとすることは、羽根をもぐようなことでもあるだろう。
かといって、絵空事だけで終わればいいのだけれど、今回みたいな旅ともなると。
彼女が突拍子もないことをすることはあったけれど、ここまで行動起こそうとするのは、珍しい。
それくらい、彼女自身が参っていたことになる。
それを理解できるのは、自分くらいなものだから。

とナディンは、彼女への想いをこめて、この先幸せがやってきますようにと祈るしかなかった。

リリは、海辺の町じゃないのなら、山間の集落の中じゃ、どこに泊まるのも同じだわ、というような顔で、窓から家々を眺めていた。
ナディンは、日没の前には、宿を探したかったが、あたりはもう暗くなり、家々は明かりが照らされていた。
この集落は、夜が早いのか、道を歩いている人は誰もいない。
これじゃ、宿を探すといっても、わかりようがない。
せめて、モーテルのような看板があればと思ったが、国道沿いにあるようなきらびやかなホテルのような場所は、この土地にはなさそうだ。
ナディンは、おもいきって、車を止めた。

「宿泊できる場所がないか、聞いてくるわ」

そう言うと、リリはぼんやりしながら、うなづいた。
その様子をみて、ナディンは、ふうとため息をついた。


一番近くの明かりのついている家の前で、ドアのチャイムを鳴らすと、人のよさそうなおじいさんと、お嫁さんであろうか中年の婦人が出てきた。
宿の場所を聞くと、この先の道をすすんだところに、看板は出していないが、宿として部屋を貸すときもあるという家があるそうだった。
お礼を言って、家をあとにし、車に戻ると、エンジンをかけた。
ナディンは、疲労が出始めているのを感じた。
山を越えてこんなに運転したことなどほとんどないのだから。
暗くなりかけた集落の道を、北に進んでいった。
言われた家は、集落のほとんどはずれにあった。
玄関のドアの前はちょっと広くなっていて小奇麗にされてあった。
看板はないが、人を呼ぶ家であることを匂わせていた。

ドアにある呼び鈴を鳴らすと、すぐに、エプロンをした中年の婦人がやってきた。

「今日、一泊できますか」

そういうと、驚いたようにしてから、ちょっと困った顔になり、

「食事の用意などもできないけれど」

と言った。急だったし、こんなに暗くなってからのことだから、それくらいは覚悟の上だと思った。

「構いません。休ませていただけるだけでも」

そういうと、婦人は、ちょっと待っててといって奥に入っていった。
奥の部屋でなにやら、話していたかと思うと、やってきて、

「何もおかまいできませんが、どうぞ」

といって、玄関を大きく開けてくれた。
ナディンは、すぐさま車にもどり、このことをリリに伝えると、リリは眠そうにしながら、バックを持って車を降りた。
ナディンはトランクは、そのまま車に置いたままにした。

リリは、婦人に、ニッコリとあいさつをすると、呼ばれるままに、玄関から入っていった。
奥の部屋には、大きな肘掛ソファーにおじいさんが座って、キセルを加えてテレビをみていた。
リリとナディンをみると、こちらを見上げてにっこりとうなづき、またテレビに目をもどした。
その様子に、一家の長であることが伺えた。

ナディンたちが、案内された部屋は、二階の階段を登ったすぐの手前の部屋だった。
奥は、奥さんの寝室になっているようで、階段のすぐ手前の端には、トイレがついていた。
お手洗いはそこを使うようにと、説明された。
婦人は、ベッドのシーツやらタオルやらベッドメイクやらと、てきぱきと動いていた。
こんなに夕暮れに、突然やってきた客だというのに、嫌な顔一つせずに、ときどき説明をしながら、手を動かしていた。
一通り、部屋のメイキングが終わると、一階に行き、しばらくして、ミルク入りのあつい紅茶を持ってきてくれた。

部屋のテーブルについている椅子にすわり、紅茶を受け取った。
リリは、あったかいカップを持つと、嬉しそうに顔が緩んだ。
昼間から何も食べていないリリは、久しぶりに口に入れる紅茶の湯気を味わいながら、そっと飲んだ。
婦人は、昔にこの家に嫁いできた人だそうで、ときどき頼まれると宿として、部屋を貸すのだと言った。
部屋以外は、まったくの民家であるため、他の部屋へは入らないようにと伝えられ、シャワー室は、一階の奥の突き当たりだと説明された。
宿をしているといっても、どうみても普通の家だ。
知り合いでもない普通の人の家に泊まるなんて、ナディンもリリもいままでなかった。
リリは、緊張しつつも新鮮なようだった。
婦人がいなくなると、リリは、ベッドに飛び込んだ。
ナディンも同じ気持ちだった。
今日は、昼から、リリの家に行き、そのあとデイと話をし、荷物をもって旅にでたという、あまりにたくさんのことがあった日だった。運転も疲れた。
リリにしても、昼間から泣きつかれ、その後、旅にでることをナディンに話、デイや子供たちと別れをつげて、こうしてきたこともない土地までやってきた。
リリは運転の疲れはないにしても、昼間、ナディンの前でいっぱい溜めていた感情を溢れさせて、涙とともに流す作業は、後から疲労がやってくるものだということを、ベッドの上で理解していた。

二人が、疲労に沈黙する中、ドアがノックされ、婦人が、サンドイッチをもってきてくれた。

「あるものの材料しかないけれど」

と、ハムと卵とレタスがサンドされた質素なものだったが、このときのナディンとリリにとっては、何にもまさる褒美だった。

お礼をいうと、ナディンもリリも、もくもくと食べた。
一口食べるごとに、この土地でとれた食べ物が、労いと優しさで二人を包み、力を与えてくれるようだった。
婦人の心遣いも、疲れた二人にとってこれ以上ない、スパイスとなっていた。
紅茶と、サンドイッチでお腹が落ち着くと、急激に睡魔がやってきた。
そして、二人とも、シャワーをあびることなく、そのままベッドに横になると身体ごと沈んでいった。

ぐっすり眠って、ナディンは朝方目がさめた。
いつもと違う場所にきて、はっと目が覚め、隣に眠っているリリをみて、ここがどこかを思い出した。

リリは気持ちよさそうにねていた。
その寝顔をみて、日ごろの疲れからも解放されているようだった。
子供たちが起きる前に、起きて食事の支度をし、慌しい時間を過ごしている主婦の朝は、ナディンには想像しかできなかった。リリは、日常に疲れていたのかもしれない。子供たちやデイの前で、母であることや、妻であることが。


外が明るくなってきていたので、窓辺に寄った。
外を眺めると、雲が白んで山間から朝日が昇ろうとしているのがわかる。
橙色に雲をそめて、濃い色となっているところから、太陽が昇ってくるだろう。

集落の景色が、浮かび上がってきていた。
昨日は暗くてわからなかったが、この家は、少し高台になっているようだ。
周りの家々の景色を見下ろすようにして立っていた。
家々に、朝日が差し込んでいく様子をナディンは、見つめていた。
いままで、普段の生活の中で、これほどゆっくりと朝日をみることなどあっただろうか。
ゆっくりと明るくなっていく景色と、その美しさに、朝焼けの感嘆の時を過ごした。
朝日とともに、温かさもやってきた。
今日は晴れのようだ。

家の玄関の前にある花壇には、すみれだろうか。
紫の花や、黄色の花が揺れているのが見える。
見渡すと、家々の軒先や、庭にも、小さな花がいくつも咲いている。
気づけば、いまは、初春なのだ。

さきほど、日常に疲れていたのではと、リリのことを言ったが、疲れていたのは、彼女だけではなかったようだ。
ナディン自身も、ここへ来て、日々繰り返される日常の中で取りこぼされた何かを、見つけていた。
彼女自身は、この旅に反対だった。
しかし、今となっては、自分にとっても、何か新しい発見の旅となるのではないだろうかと感じ始めていた。
朝日の揚々さが、彼女をそう思わせたのかもしれなかった。

部屋に光が差し込む頃、リリもベッドで目を覚ました。


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