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美しい花がある、花の美しさという様なものはない /* 小林秀雄 */

 美しい花がある、花の美しさという様なものはない。彼の花の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の哲学者の方が、化かされているに違いない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに神妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。 
 「当麻」 小林秀雄


 素敵ですね、と僕が口にする時、僕は物質的に対象だけを観察してその言葉を発していない。

 何か形容の詞を発しようとした時、僕の想念は一度、観念の世界へ旅立つ。

 今までに蒐集してきた形容と抽象の言葉から成る観念の海に一度潜り、今見ている物質的な対象を思い出し、それに合致する様な言葉を探し出して、口にするのだ。

 しかし、考えてみればそれはおかしなことだ。

 対象としてのそれは、何かの比較の上で存在しているわけではないのに、その存在を言葉にしようとするとき、過去に存在した何かから言葉を借りなければならない。

 例えばモーツァルトの音楽があったとして、その印象を言葉にする時、知らぬうちにそれはモーツァルト以前の音楽に縛られていることに気づく。

 美しい花がある、花の美しさという様なものはない。
 
 つまり、まず本質があり、それに観念が追従する。

 僕はこのことに26年、気づいていなかった様な気がする。

 過去に存在していなかったものを形容するならば、過去に存在しなかった観念を用いなければ真ではないのだろう。

 だが、完全に新なるものは他者と共有できない。お互いが理解する観念を用いてこそ、言葉の本義が果たされる。

 批評は批評として存在する限り、真の意味での批評には成り得ないのかもしれない。


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)
新潮社

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