成長について

時間と成長

 こんな広告を見た。

    「3ヶ月の本格的な英語レッスン!
  参加者の92%が『成長を実感』と回答!」

 そんなに大好評ならば、さぞ効果的なレッスンなのだろうと思う。
 何と言っても9割。過半数どころではなく、ほとんどの人がその内容に満足したと言う結果が出ているのだから。

 けれどもふと、レッスンへの参加者の気持ちに思いを馳せてみたくなる。


 熱心にか不熱心であったかは知らないが、少なくとも3ヶ月もの期間、レッスンとやらに通った彼らおよび彼女ら。
 果たして、本当に目的の力を身につけたのだろうか。
 
 この裁定を下す際の評価材料に使われるものはなんだろう。
 当然、身につけられた力の大小であるはずだ。

 けれども今回のような場合には、どうも「それに費やした時間」と言う項目が評価材料になっている気がしてならない。

 つまり、「これだけ時間をかけた」「力を得るには時間がかかる」「ゆえに私は力を得た」と言う論法だ。

 自分の手元にあるのは、確かに時間をかけたと言う事実だけであり、それに大いに信頼を寄せた結果として産み落とされたのが、「9割の人が成長を実感」な訳だ。

 成長したことを信じたい人間の弱さをうまく利用したアンケートだなあと思った。本当のところは知らないけれども。


コンプレックスビジネス


 世の中には人の弱みにつけこむようなお仕事が少なからずあるようだ。

 化粧屋は「もっと素敵な自分に」と嘯くと同時に、「今のあなたではダメだ」と無根拠の低評価を押し付けてくる。
 転職屋は「今のあなたにはもっとふさわしい仕事がある」と謳う一方、「もっとあなたの能力を引き出しましょう」なんて言ってセミナーやら対策やらで要らぬ適正を補完してくる。

 こう言った商売が成り立つ前提は、対象の値を測る上での「絶対的な評価基準がない」ことにあるのかなと思う。

 美人の定義は無いし、優れた社会人の定義も無い。
 だから誰もがそうあることを求める。
 なぜか、今現在はそうで無いことを理由なしに認めながら。

 だから時間とか資格とか、本質からちょっとずれたようなところが評価の材料になってしまうんだろうなあ。

 それがダメだと、言うわけでは無いんですけれども。

 

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