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眼鏡と額縁

 闇金ウシジマくんを見ていたら、ある登場人物、ファッションを極めることでセレブになろうとしている男の子がこんなことを言った。

 「人間の内面なんて他の人には分からないんだから、外見に気合いれるんだよ」

 うろ覚えだけど、そんな感じのこと。

 ここのところ、どちらかと言えば内面を磨くべくいろいろなことを読んだり学んだり考えたりしていた僕は、これを聞いてこう思った。


(確かに。)


 そんなわけで今日はファッション、というか装飾というものについて一考しよう。


 しようと思ったけれども、あまりファッションに興味がないので思うところも少ない。


 ので、装飾という点から飛躍して、眼鏡考。


眼鏡と額縁


 眼鏡は今や、実用性とならんでそのファッション性をも併せてその価値ということができるだろう。いくらよく見える眼鏡でも、最低限には洒脱でないと、誰にも使用されない。


 では眼鏡の装飾性は何によって担保されているかといえば、主たるところはその縁取り、フレームによってだろう。
 トップリム、アンダーリム、ボストン、ウェリントンと、その形状は多岐にわたり、価値も個性も多様に分化する。


 眼鏡はその本質である実用性から離れたところで、価値を獲得しつつある。

 こんなことを考えたときに思い出されるのが、絵画と額縁についての話だ。


 聞いた話。

 絵画の価値が分からない商人が絵画の取引に赴いた時のことである。取引相手は「これは優れた絵である」と言って彼に高額な絵画の購入を勧めるが、その価値が分からない商人はなかなか購入に踏み切れない。

 しかしそこで商人はあることに気が付く。その絵画の額縁に施された装飾が実に見事なものだったのだ。
 細かな芸術性は分からないが、それでもその装飾は明らかに手がかかっており、そこに収めている絵画の価値を保障しているかのように思われた。

 商人は、絵画の価値は分からなかったがその価値を額縁に見出し、その絵画を購入することを決めたのであった。


 この話では絵画の価値が額縁に見出されている。
 つまり、本質とは異なる場所に価値が発生している例と言えるだろう。


 比べるのはいささか難があるかもしれないが、この点において眼鏡と絵画における額縁というのは共通点があるように思われる。


 すなわち、眼鏡は視力を補完するために生み出されたのにその装飾性によって価値が決定され、絵画は芸術性の表出として生成されたのにその額縁によって価値が判断されてしまっている。


 もちろんすべてがそうであるとは言わない。眼鏡のレンズ部分にこだわるひともいるだろうし、しっかり絵画そのものの価値を理解することができる人も多いだろう。

 けれども価値の判断基準が一つから増えているという事実は間違いないのだろう。本来付与されるべき点以外で価値が発生している。


 考えてみれば、世の中の多くのことは似たようなものである。

 車は移動手段であると同時にステータスであるし、服は身を隠すものであると同時に個性の表現手段となっている。


 進化や発展というものは、往々にしてその本質外の価値を発展させるものなのかもしれない。

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