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誰かを批判するのは、とても簡単なことだ


 誰かを、何かを批判するというのは、とても簡単なことだ。
 人物、あるいは事象を自分の文脈に引き込んで、自分の価値観で判断するだけでよい。


 近頃、誰誰さんの行動を批判する、といった旨のニュースが多い。

 レシート買取アプリを作り上げた17歳の高校生氏はアプリの不備でその経営戦略を貶され、自分の体にタトゥーを入れていたりゅうちぇる氏はその人格を否定され、ユニセフに寄付をしたローラ氏は進もうとしている道を嘲笑された。


 別に否定の言葉が悪いと言いたいわけではない。
 個人にはいろいろな価値観があるわけで、それに従って出された結論が否定であるならば、それはそれで大いに尊重するべき意見だ。

 けれども、そのやり方が幼稚なのは、大人としてどうなのかとは思う。
 彼らが行っているのは、批判であり、批評ではない
 批判は、小学生過程でマスターする意見表明の技術だ。


 批判は、主観的な感想だ。自分が嫌いだと思いそれを口にすればそれは批判となるし、逆に好きだという思いを口にするのもまた批判だ(本来、批判は肯定・否定いずれの意味も取る)。

 批判は容易だ。なぜならば、批判は個人の主観や価値観を根拠にするだけで述べることができるからだ。

 ローラのスタンスが寄付の精神とはかけ離れていると思うから嫌い。
 ローラのしていることは良いことだと思うから好き。

 これはどちらも同じレベルだ。自分の考え、思うところ以外に言及していない判断であるという点で同質だ。


 批評は、客観的な意見だ。自分の感情を主とするのではなく、客観的な、誰が見てもそう判断できるようなことを根拠に論を組み立てなければいけない。

 批評は難しい。なぜならば、己の好みで文章を書くことができないし、対象の悪い点、良い点いずれにも目を通さなければいけない。

 ローラ氏が行ったユニセフへの寄付活動は、彼女の知名度、また金額の大きさからも称賛されるべきものである。しかし同時に掲載された写真が不適切であったという意見もまた、理解できる。ユニセフの看板の前でポージングを行っている氏は、素晴らしい寄付の報告と、ビジネスとしての自身の広告活動の二つを行っていると見える。


 批判ではなく批評を行わなければならない、なんていう法は無い。
 人に優しくしなければいけないという法が無いように。


 けれども何時か、誰かを否定したくなったようなとき、その時にもしより良い大人あるいは紳士として発言をしたいと思うのであれば、自らの言葉が批評ではなく批判になっていないかと推敲してみることは良いことだろう。


 何かを語る上で大事なのは、その本質を理解することだと述べたのはソクラテスだ。

「およそ(弁論の)技術のなかでも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論に近いまでの詳細な論議と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする」
 『パイドロス』 プラトン


 りゅうちぇるを否定する人よ、あなたはりゅうちぇるの考えを理解することに努めたか?
 りゅうちぇるを肯定する人よ、あなたはりゅうちぇるの生き方を冷静に受け止めているか?


 自分の感想を述べるだけなら小学生でも出来る。
 
 僕ら大人は、もっと高次なレベルで批評してみようじゃないか。
 きっとそれは、とても難しいことだから。

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