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ノブレスオブリージュと鳩

鳩に餌を与えないでください

 僕なんかは、できれば人の力は借りずに生きていきたいと思っている。
 他人の力を借りることが何か相乗効果をもたらす場合ならまだしも、現実では、大抵の場合においてそうでは無い。ただただ相手の力を一方的に拝借しなければいけない必要というものに、しばしば迫られる。

 もちろん、だからといって借りないという選択肢をいつも取れるわけでは無い。時として、というよりも往往にして、他人の力は借りなければならない。そんな時僕は、僕の精神を屈服状態に置き、相手に助力をこう。

 これは僕だけでは無いと信じてやまないが、一方的な施しを受ける時、受け手としての僕の精神は、いつだって卑屈になる。受給者としてのあるべき精神というか、被奉仕者の道徳というか、ともかく襟を正して頭を垂れねばならない、と思ってしまう。高邁な精神とは全く無縁の境地に達する。


 その点、鳩はすごい。

 彼らは人間の施しを受けることに何の恥も覚えず、首を垂れ弱々しく鳴いてみせ、徹底的に庇護者の身分に甘んじている。そうすることを通してなお、彼らの精神は卑近なものにならず、現在の延長としての明日を、全く同じ魂を持って生きているように見える。


 このように鳩は、ここにおいて優れた魂を持っているように思える。けれども、それに対する人間はどうだろうか。

 「鳩に餌を与えないでください」

 驚くべきことに、人間は鳩のごとき施しを受ける側の優れた精神を備えていないどころか、鳩のような存在に施しを与える精神すら備えていないのだ。

 彼らは自分に力があると思い込み、あらゆる点において自分は鳩より優れていると信じ、どんな論理か知らないが鳩の生殺与奪権までをも手中にしていると思っているらしい。


ノブレスオブリージュ

 高貴なるものはその存続に責任を持たなければいけない。
 これは、中世のノブレスオブリージュの考え方だ。人間社会において上位に位置する人間に向けられた言葉であり、もともと大衆が意識すべき言葉ではない。

 が、人の価値が均され、世界における絶対的上位者としての名簿に全人類が名を連ねるこの時代、全ての人々がこのノブレスオブリージュ的な精神を涵養しなければいけないのではないだろうか。

 ノブレスオブリージュに見られる果たすべき責務とは何か。
 それは、身分にふさわしい社会的責任と義務の遂行である。

 いかにも僕らは大衆である。大衆にふさわしい社会的責任と義務なんて大したことのないようなものにも思える。けれども僕らは、社会的規模では大衆であると同時に、世界的規模では超少数の絶対勝者としても存在している。そう考えた時、自分に果たすべき義務などないなどとは、軽々しく言えないのではないだろうか。


 …何が言いたいかと言えば、何のことはない、鳩にくらい優しくしようぜと言いたいのです。
 餌をあげてもいいじゃないの。それで公園が汚れてしまう、それくらいのことを受け入れる心の広さは、みんなが持たなければ。なんて思うわけです。 

 

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