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収集と蒐集、製錬と精錬

収集と蒐集


 本を読むとき、人はそこに何を求めるのだろうか。
 暇つぶし、娯楽、学習。目的は様々に取り得て、どれもきっと間違いではない。

 僕が技術書以外で本を開くとき、そこには教養を求めているような気がする。教養人になりたくて本を読んでいる。

 結果と過程が逆転している、なんていう批判はどこの世界にもあるが、 僕の場合もまさにその批判の対象になるだろう。本を読むから教養人になれるのであって、教養人になりたいから本を読むのではない、と。

 その批判は甘んじて受けるとして、とりあえずそれに目をつぶって、少し考察したい。
 考えたいのは、教養人になるべく本を読む僕の姿勢は、知識を収集していると言えるのだろうか、それとも蒐集していると言えるだろうか、ということだ。


 収集とは、目的を持たずに対象を集めることを言い、蒐集とは目的を持って対象を集めることを言う。

 この点において「教養人になりたい」という目的は、本を読み知識を集めることの目的たり得るのだろうか。


 教養という言葉はひどく無限定的だ。天気についての知識だって教養であるし、哲学についての知識だって教養である。つまり、この世にある概ねのことは教養の対象たり得る。

 全ての事象についての知識を集めたいと思ったとき、これは最早、目的を持たずに知識を集めることと同義であるような気がする。蒐集めかして、収集的なのだ。


 かくして、不思議なことであるけれども、教養人になりたいと知識を蒐集しているつもりの僕は、どうも知識を収集しているに過ぎないと言えそうだ。
 単なる言葉の違いだけれども、これは結構大きな違いだ。車を買うために貯金しているのか、ただ貯金しているのかぐらいの違いだ。


製錬と精錬


 言葉遊び的な趣が現れたので、もう一つ言葉を考えてみたい。
 冶金における、製錬と精錬という言葉について。


 製錬とは鉱石から金属を取り出すことで、精錬とは金属からより純度の高い金属を抽出することをいう。

 これ自体は単なる用語で、冶金分野における技術の名前に過ぎないかもしれないけれども、抽象度をあげてみると興味深い言葉だ。


 金属というのは、純粋な物質として自然界に転がっているものではない。鉱石の中に微量に含まれていたりするのであって、そこから取り出す作業、製錬が必要となる。

 だが取り出した金属も、鉄骨なんかに使うならまだしも装飾品なんかに使おうと思ったならばより洗練された純度にしなければいけない。そこで金属を精錬し、より優れた金属として生まれ変わらせる。


 ここに見られるようなことは、知識とか教養についても同じことが言えるだろう。

 知識はそれ単体で人間界に転がっているものでは当然ない。それは人の営みの中から意図的に抽出されて初めて可視化され、結実するものだ。

 そして抽出された知識は整理される。単一の事象にしか適用できなかった知識は、抽象度を上げることで様々な事象に対応できる知識へと変化する。ちょうど今行っている、精錬という概念についての考察のように。


 面白いのは、製錬も精錬もひどく能動的な印象を持った言葉だということだ。低次存在のままであることをよしとせず、何かしらのアクションを起こしてやろうという意思が隠れていない。


 そういうこともあって、僕はこの二つの言葉がかなり好きだ。

 僕の読書態度は収集的であるかもしれないけれども、これらの言葉は。集めたものに対して能動的に製錬、精錬処理をかけようと思わせてくれる。

 これまた因果が崩れてしまうが、収集した知識を精錬することができたならば、その時には収集も蒐集の性質を帯び始める気がする。
 なんでも学びたいという無限定な学びは、学びを形にして初めて、無限定という誹りを免れる気がするのだ。気のせいだろうか。


 本から学ぶことは多いけれども、たった二字の言葉からですら学べることもまた多い。

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