要約 『惜みなく愛は奪う』 有島武郎
偽善者と弱さ
私は弱いもののあらゆる窮策に通じている。一つの小さな虚偽の為に、さらに虚偽を重ねばならない苦痛も知っている。弱いが為に自分を強く見せようとする不安も。自分の弱みをあえて人前に持ち出し、人々から憐憫を絞りとろうとする自瀆も、知っている。弱さは、真に醜さだ。
しかし偽善者とは、弱いということばかりがその本質ではない。偽善者は、ただ弱いだけではなく、その反面に多少の強さを以っている。彼は自分の弱みによって引き起こした醜さを意識し得る強さをも持っている。
主義者
聡明にして上品な人々は、しばしば仮象に満足する。彼らは、人の世に置いて現象と呼ばれるもの、実在と呼ばれるもの、それら一切が仮初めな遊戯、仮象でしかないことを知り、傍観している。仮象に執着し、葛藤を加え、努力する人々を横目に、彼らはただ老翁のように淋しい微笑を浮かべる。そこには皮層ではない上皮さが漂う。或いは、全てを受けいれた上で外界の跳梁に身を任せ、昼もなく夜もなく歓楽にふける物もある。そこにもまた上品さは宿る。
彼らと趣を異にするのは、主義者と呼ばれる人々だ。彼らは自分が得た天分と知識を以って、人間全体をただ一つの色に回帰させようとする。その意気は尊いだろう。けれどもその尊さの影には、淋しさが潜む。
私自身の経験から推測するに、恐らく彼ら、主義者は、生命の空虚から救い出されたい為に、他人の自由にまで踏み込んでも、力の限りをただ一点に集中させんとするのだ。それは、ある場合には他人にとって迷惑であろう。しかし彼らにとっては、それは致命的に必要なことであるのだ。
個性
私の個性は、私に告げてこう言う。
「私はお前だ。私はお前の精髄だ。一つの概念の幽霊ではない。お前の全体の中で働く力の総和なのだ
お前にとって、私以上に完全なものはない。だがお前はしばしば、私以外の何者かに身売りをする。
お前は私を無視して、時には霊から引き離した肉だけの、さも実質を備えたらしく振る舞う悪魔に身売りする。
お前は私を無視して、時には肉から引き離した霊だけの、さも実質を備えたらしく振る舞う天使に身売りする。
お前はだんだん私から離れていって、天国やら地獄やら、天使やら悪魔やら、実質の無い観念、真実の無い幻影に捉えられる。そしてお前はいつしか、観念の無い所に安心できなくなり、常に外部に存する観念に依存するようになる。
その時お前は、言うことなり、考えることなり、実行することの全てが、外部の力によって支配されるようになる。お前の中には理想ができ、良心ができ、道徳ができ、神ができる。しかしそのどれもが、私(個性)がお前に命じた物ではなく、外部から借りてきたものばかりなのだ。
いかにさもしくとも、力なくとも、人間は人間であることによってのみ尊い。外部ばかりに気を取られていずに、少しは此方を向いて見るがいい。そして本当のお前自身なるお前の個性が、ここにいるのを思い出せ。」
生活について (1/3) 習性的生活
外界の刺激をそのまま受け入れる生活を仮に習性的生活と呼ぶ。それは石の生活と同様だ。石は外界の刺激なしには永久に一所にあって、長い時間の中でただ滅していく。石から外界に働きかける場合は絶無だ。
私はかかる生活を無益だと言うのでは無い。この生活の為に、私は日常生活がどれほど煩雑な葛藤から救われているか知れない。
しかし、私の中の本能は、自己の表現を欲求する個性は、この習性的生活のみ依拠し生存することに耐えられない。単なる過去の繰り返しによって生活することに満足できない。
そうして私の個性は、習性的では無い生活の相を求め始める。
生活について (2/3) 智的生活
習性的生活に於いて、私は無元の世界にいた(=対置される外界が無い世界)。智的生活に於いて、私は初めて二元の世界に入る。ここには私がいる。彼処には外界がある。外界は私に攻め寄せてくる。私は経験という備えによって、外界と衝突する。
智的生活とは、反射の生活である。この生活に於いて私の個性は独立し、外界が私に働きかけた時、個性がそれに応対する。外界を相手取って、個性はその独自性を発揮する。
智的生活の出発点は、経験である。経験とは要するに、私の生活の残滓である。一つの事象が知識になる為には、その事象が一度生活によって濾過されたということを必要な条件とする。仮令その知識が他人の経験の結果によって出来上がったものであれ、私の経験もまたそれを裏書した物でなければならぬ。
生活について (3/3) 本能的生活
智的生活は経験に根ざす物であるからして、本質的に保守的である。そこでは進歩とか創造とかいう動向が自然、忌み嫌われる。その意味で智的生活は、社会が個人に要求する所に一致し、社会的存在としての個人を満足せしめる。
しかし私の個性は、智的生活より更に緊張した生活を志向する本能がある。進歩と創造への衝動がある。
個性の緊張は、私を外界に突貫せしめる。外界が個性に働きかけ無いうちに、個性が進んで外界に働きかける。即ち、個性が、自己必然の衝動によって自分の生活を開始する。私はこれを、本能的生活と仮称する。
習性的生活は無元的であり、智的生活は二元的であった。本能的生活はこの意味で一元的であると言える。自らの意思のみが自発し、それを牽制すべき対象はなんら存在しない。
道徳
道徳とは、自己と外界との知識に基する正しい自己の立場の決定である。だから、道徳は一人の人の上にも、二人以上の人々の間にも当然成り立たねばならぬものだ。ただしいずれに於いても、道徳の内容は知識の変化とともに変化する。
私に普遍不易に感ぜられるものは、道徳ではなく、私に内在する道徳性である。即ち、知識の集成の中から必ず自己を外界に対して律すべき基準を作り出そうとする動向は、変化することなく常に自存する。
従って、道徳を成立せしめんとする道徳性は不変であり、道徳性により創造せしめらる道徳は有変のもので有る。
愛について (1/3) 愛は奪う
ポーロはその書簡の中に、「愛は惜しみなく与え」云々と言った。愛する者とは与える物のことである。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする、と。
しかし私の体験は、愛の本質を「与える本能」として感ずることができない。私の経験が私に告げる所によれば、愛は与える本能である代わりに、奪う本能である。放射するエネルギーである代わりに、吸引するエネルギーである。
私は私を愛している。私は自らに無関係な他者を愛することはできない。私は自らに関係のある他者を愛することはできる。
私が他を愛している場合も、本質的に言えば他を愛することに於いて、己を愛しているのだ。そして己をのみだ。
ここで私が私を愛すると言っていることは、世間一般における功利的な利己主義とは異なる次元の物である。私の言う所の愛己主義は、自己保存を希求するものでは無い。私の愛は、私の中にあって本能として働き、私の最上の成長と完成とを欲する。
私の個性は愛によって、成長と完成との道程に急ぐ。しからば私の愛は、いかにしてその成就に漸近するか。それは、奪うことによってである。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。
愛は自己への獲得である。愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは、必ず奪っている。
私は他を愛する形に於いて全てを私の個性の中に奪っている。私はより正しきものを奪い取らんが為に、より善く、より深く愛さねばならぬ。
愛について (2/3) 愛は与えるもの、ということの否定
「愛を与えるものは与えるが故に富み、愛を受けるものは受けるが故に富む」という主張を、私は知らないでは無い。しかし、その提言には一つの条件を置く必要がある。愛が与えることによってに倍するという現象は、「愛する者と愛せられたる者との間に愛が相互的に成り立った場合」に限られるということだ。
愛する人が愛し、愛される人が愛されたことを知っている場合には、確かに愛の恵みは二倍するだろう。だが愛する人が愛し、しかし愛せられるものがそれを知らなかった場合、それでも愛は二倍されたと感じることはできるだろうか。おそらく、感じることはできないだろう。
あるいはこう反論するかもしれない。「愛した、という行為に対する自己満足が豊かさをもたらす」と。しかしこの時彼は、明らかに報酬を受けている。報酬を受けたということは、彼の愛は没我的な愛他主義の域を外れ、功利的な愛他主義の域に踏み込んだと言わざるを得ない。報酬を前提とした行為からは最早犠牲やら献身やらの交渉さは失われ、愛の本質から外れる。
愛について (3/3) 本能と個性
本能の希求は、常に個性全体の飽満を伴って起こる。
例えば一人の男が居て、肉欲の衝動に駆られて一人の少女を辱めたとしよう。これは、本能の希求の結果ではなく、ただ肉欲の衝動に身を任せた結果である。ここに於いては、彼の本能の統合はもう破れてしまっている。本能的生活は、もう彼には関わりはない。
何故か。男が少女に手をかけようとした時、男のうちには必ず少なからずの呵責をその個性に感じたはずだ(固定的な道徳観念から生じるものではなく、本能が生み出した感情として)。 その感情を尊重しなかったならば、それは即ち本能(個性)全体よりも本能の一部(肉欲)を重んじたということであり、その意味で本能の統合が破れたということができるのだ。
本当に本能が、個性全体の衝動によってその少女を求めたのならば、男は少女に切ない恋を打ち明けるだろう。そして仮に少女がそれを受け入れたならば、男は少女を愛することができ、少女の全てを自らの個性の内に奪い取ることができる。
恋愛
恋愛の前に、個性の自己に対する深き要求があることを思え。正しくいうと、個性の全要求によってのみ、人は愛人を見いだすことに誤謬なきことができる。
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