過去の私が言うにはね
上の文書を書いた時(2012年)、人とは違う道を選んだ自覚と、選んだという葛藤と、戦い続けて、少し落ち着いた頃だった。
無謀でも、愚かでも、その道に入り込んだ。
それが私が選んだ道だった。
褒められるようなものではなく、だからといって落ちきってもいない。
何時だって宙ぶらりんな私がいた。
ただ、どんなに世間に絶望しても、自分の有様が悲しくなっても
一度だって『私が私じゃなかったら良かったのに』と思った事はない。
不思議なほどに昔から『私は私』だって解っていた。
どんなに生きにくくても、どんなに足りなくても、どんなに苦しくても。
例え世界中が敵であっても。
他の誰にもなれない事、他の誰かになりたいなんて本気で思えない事はわかりきっていた。
知っていた癖に、見ないふりをした数年を取り戻すのに人生を浪費したなと思う。
『あのね。
自分と手を繋ぐってことは、覚悟を決めて立ち続けるって事だよ。
世間から見て逃げてるとか、卑怯だとか、嘘だとか、そういうのにぶつかっても
砕けない自分がそこにある。
それごと受け入れるってことだよ。
回避する術を学ぶこともやるし、傷つかないようにすることも大切だけど、覚悟を決めて自分と生きるってそういう事だよ。』
って過去の私はきっと言う。堂々と、きっと言う。
私はそれを続けて、今も私。
今の私が書けない私が、過去の言葉にいる。
恐ろしい程に素直に真っ直ぐに、私が言葉を紡いでいたりする。
『ここまでおいで』という気持ちと
『はやくいきな』って背を押される感じと
手を伸ばすのと、地層に触れるのと、全然違う感覚が同時に存在する場所、私。
面白い。
不思議。
きっと他の人もそう。
だから私は人と関わるんだと思う。
だから私は私でいたいんだと思う。
うまく言えないけれど
どんなに重ねて地形がかわっても、どんなに巡って忘れていても、それごとそれだねって言っていたいんだ。