教員は生徒理解の理論を自分にも使ってみた方がいい。
【想定している読者層】
・教員に違和感を持つ方々
・学校に関心のある方
1.記事の結論
子ども達だけに対してだけではなく、自分にも知識や理論を適用できて一人前の教員ではないかと考えています。
2.自己実現理論(欲求階層)
例えば、教員は子ども達に対して「社会性が弱い」とか「承認欲求が強い」とか「理想と現実が分かっていない」等と評価することがあります。
この評価を、無配慮に子ども達に伝える危険な教員もいますが、ほとんどの場合、教員間での会話でしか聞かないものです。このような会話が建設的な結果をもたらすこともありますが、多くの場合「分からせる」や「崖から一度突き落とす」といった対応が取られることになります。
このような対応が子どもと親を追い詰めるのですが、おそらく、これしかできないか、これしか知らないか、この考え方を多角的に省察できないか、ひとまず、能力的な制限又は境遇が選択させているのだと考えています。
一部、心理学を学んだ教員は欲求階層説を理解の枠組みとして利用し、生徒理解を試みている場合もあります。この場合には、「まず低階層の欲求部分を満たしてあげられるような対応を考えよう」となるわけです。
ただ、この理論を自己理解に活用している教員は、今の所聞いたことがありません。他者理解とはそもそも、自己理解から始まるものですので、この理論を持ち出して児童生徒理解に活用しようとするならば、まずは自己を題材として用いるべきです。
まず、教員は仕事柄、安全の欲求が脅かされています。給与は高水準ですが、100連勤など当たり前ですし、精神的健康も脅かされています。そもそも、睡眠すら十分にとれていないでしょう。そして、毎日のように「予測不可能な事態」への対応をしており、教員という仕事から「安全」が消えて行っています。
この土台の上に、情緒的な人間関係を生徒や保護者、同僚との間で構築することを求められていますし、人によっては自分の影響力を高めたいがゆえに、ほとんど根拠のない能力を誇示するといった行動に走ってしまう事があります。
教員が持っている欲求階層説のピラミッドを家に例えるならば、被災し、半壊した家に住んでいる状態であると言えます。
ぼろぼろのつり橋の上にいる教員が、同じつり橋に立っている子どもに対応しようとしても、共倒れするしかありません。
3.発達課題
発達課題は「全ての人間」を対象としています。
しかし学校では、高校生や中学生は「自分らしさ」を見つける事が大切であると言うだけであり、教員の発達課題についての言及は聞いたことがありません。
アイデンティティを例にとるならば、自己に関するアイデンティティ、職業に関するアイデンティティの大きく2つが考えられます。
教員の中には、「私らしい私」と「教員らしい私」に距離があり、「本当の自分は何者か」を見失っている人が結構います。
なので、シンプルに「あなたはどうしたいの?」という質問に答えられなかったり、「教員としてはどうしたいの?」という質問に対して無言になってしう人が多いのです。
答えられたとしても、「私としてはこうしたいけど、教員としてはこうした方が良いと思う」という回答になり、「自分で決められない」等という状況に陥る人が、相当数います。そして、他者からの不信感を抱かれたり、言動に矛盾が生じて同僚とトラブルを起こしたりしてしまうのです。
現代では、思春期と青年期がごちゃまぜになってきているだけでなく、青年期が長期化しています。30代が終わっても青年期みたいな人が「普通」になりつつあります。これは、個人ではなく社会の問題のようにも思われます。
とかく、教員も人間なので発達課題のなかで、あらゆる矛盾を乗り越えようとしているのですが、それを棚上げしないと職務遂行できない状態にあります。棚上げされたままで職務を遂行するから、教員への信頼が失墜するといった結果が生まれるということですね。
4.他者理解は自己理解
当たり前の事ですが、他人の事を完全に理解する事はできません。「私はあなたになれないから」です。
では、他者理解はどのように行われているのかと言いますと、
①自分の得意や長所の領域内での評価
②自分の不得意や短所の領域内での評価
③個人的な信念の領域での評価
といった形です。
音楽が得意な人は、同じく音楽を得意とする人を比較的自分に近しい人間だと評価するでしょう。逆に音楽が苦手な人の場合は、それと逆の事が起こります。
交通ルールを守る事を信念としている人は、そうでない人をろくでなしと評価することがあります。
だからこそ、自己理解が重要になるわけです。
自分はどんな基準で他人を理解しているのか、といった視点を持つ事がとても大切になってきます。このとき、子ども理解の場面で使用している理論を、自分に適用して理解を深めるとてっとりばやいのです。
特に、中学校以上の教員は、自分の教科を持っていますし、その教科がその教員の思考形態やアイデンティティとなっている場合がかなりの多いのです。
それを、普遍的な物として据えた気持ちは非常に強いものですが、専門家として子ども達に対応するのであれば、一旦、これらは個人的なものでしかないし、他人にとっては何の価値もない物である、といった所まで落として、自分の外に置いてみるといった仕事が必要です。
最後までお読みいただきありがとうございました。