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泣いた顔も、笑った顔も。

先日、双子の子どもたちの写真を現像しようと思いパソコンで写真データを見ていた時のこと。その時、自分が選ぶ写真が以前と違うことに気づいてはっとした。

「あ、これも現像したいな」と思った写真が、これまで私が選ぶことがなかった写真だったのだ。それは、子どもたちの泣いた顔の写真。写真から泣き声が聞こえてきそうな写真は、それまで私にとって「怖いもの」だった。

当時、私の中で「泣き声=私を責めるもの」になってしまっていたのだと思う。泣かれる度に自分の母としての未熟さを感じて苦しくて。二人の赤ちゃんの泣き声が響く中で、どうしたら泣き止んでくれるのか分からなくて、試行錯誤しながら三人で長い時間泣き続けたこともあった。

だから、双子の泣き顔を見る度に、写真から泣き声が聞こえてきそうで怖くて、泣き顔の写真から目をそらしていた。

そんな私の幼少期はというと、とっても泣き虫な子だった。ささいなことですぐに涙がポロリと流れてしまうので、厳格な祖父からはよく「泣くな!」と言われていた。「泣くな!」と言われてぐっと我慢しようとするのだけど、涙がもっともっと溢れてきてしまい、どうしたら涙を止められるのだろうとずっと思っていた。(祖父との良い思い出もたくさんあるのですが、祖父にとって「泣かれる」ということが何かトリガー、辛いことだったのかなあと今は思う)

もしかしたら小さい頃から「泣くことはいけないこと」と思い込んできたのかもしれない。そして、「泣かせることもいけないこと」だといつのまにか思ってきたのかもしれない。私は泣く双子を「とにかく泣き止ませなくては」といつも焦っていた。そんな日々を過ごしてきて、私は子どもたちの泣き顔の写真から距離をとるようになった。

そんな私だったけれど、先日写真を選んでいる時に出てきた双子の泣き顔の写真を見て「あ、これもいいな」と自然に思ったのだ。あまりに自然にそう思った自分の変化に、少し驚いた。

なぜ、泣き顔の写真に対して以前と違う感情を持ったのだろうか。

考えてみると、ここ数年で「泣く」ということへの気持ちが私の中で大きく変わったからなのだと思う。さまざまな角度から自分を知ることに重きを置いていたこの二年ほどで、「泣いてもいいよ」という許可を自分自身に少しずつ出せるようになった。

その許可を自分に出せるようになると、子どもたちに対して「悲しい時は泣いていいよ。落ち着くまでひとまず泣こうか」と思えることが本当に少しずつだけど増えていった。そんな風に思えない日ももちろんあるけど、泣くことをひっこめると、本当は泣きたかった自分を置き去りにしてしまうから。だから、「泣いてもいいよ」の気持ちは子どもたちにも、そして自分にもちゃんと持っていてあげたい。

「泣いちゃいけない」「泣かせちゃいけない」と思い込んでいた私が、自分の心の動きを見つめよう、自分の悲しみを自分でさえ奪ってはいけないんだ、と少しずつ思うようになって、その過程があったから双子の泣き顔写真を「愛おしいな」とこれまでと違う感情で見つめられたのだと思う。

今も子どもたちに泣かれるとイライラしたり気持ちを揺さぶられたりするし、これからもそういう場面は幾度となくあるだろう。でもきっと、少なくとも「泣く=悪いこと」だとはもう思わない。
何かに、誰かに向き合う時に「まずは自分の感情を大切に見つめてみること」が起点の方が私には合っているなと思うのだった。

現像した双子の泣き顔写真を微笑ましく見ながら、行きつ戻りつしながらも「自分の感情を否定しないこと」を選んできた自分に、私は「ありがとう」と言いたくなった。自分自身を見つめてあげることが、少しずつ未来の私を作っていくのかもしれない。

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