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「カス」と言われた女

その日、SNS(X)で親しく拝見していた方の投稿に暴言が書き込まれた。いつもなら黙ってやり過ごしていただろう。だけどわたしはどうしても許せなくなった。そして自らそこへ飛び込んだ。同じ障害児のママという、それだけの理由ではそんな無謀なことはしなかった。SNSが陰湿な面を持っているということを、わたしは身にしみて知っている。

子供は親の予想を超えた動きをすることがある。そして障害のある子はその見越したところを更に越えてくることがある。これが、なかなかよくある。常に見張っていても一瞬の隙をつき予定外、予想外のことを起こしたりする。親はそれに対し頭を下げる。これまで何度頭を下げたか数え切れないくらいには、すいません申し訳ないですごめんなさいと謝り生きてきた。わたしの頭など何万回下げても構わなかったし、穏便に済むのならそれでいいと腹を括ってきた。全ては愛する我が子を守るためだ。けれどそれを無視したり、暴言を吐き捨てる人がいるのも事実で、

「こいつヤバいんじゃないの?」

多動息子に向けられた口撃が、暫くの間わたしの頭の中に住みついて離れてくれないこともあった。

ネットでは、相手にも心というものがあることを忘れてしまったのですか、とその人間性を勘繰りたくなるような人がいる。どうやったらそちらの方向へ話が進んでいくのか全く理解不能な歪曲された持論を展開する人がいて、論点のすり替えというか、そうじゃないよと言いたくなる見ず知らずの人がいる。木を見ず森を見ず何も見ず、一体なにを見ているのか分からないが、一部を掴んであさっての方向へ想像力を働かせて、そしてなぜだか怒りをぶつけてくる。


わたしも同SNSで誹謗中傷に遭ったことがある。大きめのものは2回ほど。「バズる」と表現されることもあるが、わたしの場合は「炎上」の方がしっくりきた。

わたしがSNSを始めたのは2020年の9月。投稿を始めてから1年が過ぎた頃だった。睡眠障害の息子との生活で限界を迎えていた時のことを記した。それが軽く燃えた。


現在は中傷の意見は見えなくなっているけど、当時はクソアマだの、主婦のくせにどうだとか、旦那を仕事に行かせないバカだとか、文章が自分に酔っていてキモいなどアレコレ言われた。それでもこの投稿を消去しなかったのは、それを言ってくる人達が睡眠障害の恐ろしさに対し無知だと分かる言葉を並べていたからだ。そんな人達のキャンキャンした声などは何の意味もないと思ったし、誹謗以上に同じ経験をした人の声や優しい励ましがあったことも大きかった。

けれど2回目の誹謗中傷は違った。

忘れもしない、あれは去年の10月の三連休前、それは学校での先生とのやり取りを投稿したものだった。内容の時系列はずらしていたが、いいねとRTと侮辱がスマホにひっきりなしに届き始めた。子供の学校での出来事だったので詳細を書けなかったことと、一方通行の視点しか持てないそのSNSとの相性が運悪く爆発した。それはわたし史上経験したことのない炎上となり、怖くなってスマホを即座にテーブルに置いた。恐怖だった。とりあえずそこから離れようと見ないようにしたが、気になりアプリを開くと通知さえ追いつかない事態になっていた。取得できませんと表示されたと思ったら、再びぐるぐると高速回転を始める。それはとても目まぐるしく、ジョジョの奇妙な冒険並みにオラオラオラオラと、こちらにパンチを繰り出しているようだった。その煽りが更にわたしを青くさせた。再度スマホの画面を下に向けて伏せ、現実逃避。それを何度も繰り返していた。どうしよう。SNSに殺されると思った。

そのなかに、いいねを送り合っていた方の意見が目に入った。震える指でそこを開くと、何か事情があるのだと思うという、燃え盛る炎の中に入ってわたしを擁護する投稿を送ってくれていた。その擁護に対しいつもなら遠くにいるはずの、わたしとはカテゴリー違いの垢主が、今度はその人めがけて殴っていた。それが二人もいる。もう駄目だと思った。それまでわたしの投稿に共感してくれていたその人まで巻き込んでしまった。見ればいいねには6万と表示があったが、中傷する意見にもいいねは盛大につき始めていた。こんな状況でわたしが何をどう言ったところで、まともに聞いてくれるわけなんてない。そんなことをすれば火に油を注ぐだけだろう。

わたしは炎上中の投稿を削除した。

それからも反論と中傷と侮辱はスマホに届き続けた。もういらないってば、クソリプ。通知を止めてくれ。わたしは胃が痛くなり薬を飲んだ。そして鍵垢にし身を隠した。

徐々に通知が減りだした。時間を置いてから、そこにどんな反応があったのか覗いてみることにした。怖いけど見たい、見たいけど怖い。恐る恐る辿った先にはいろんな意見があった。そんなことをここに書く奴が悪いとか、この親はこうするべきだとか、自己中だとか。批判や悪口は雪だるま式に大きくなっていた。一番多かったのは「モンペ」で、こういう親がいるからダメなんだ、先生がかわいそう、反省しろなどとわたしを罵倒する声が連なっていた。共感の声もあったのに、どこから来たのか分からない垢にメッタ打ちのボッコボコにされて、ああいう時は不思議と叩いてくる意見の方が脳に強く入ってくるのは何とかならないものだろうか。字を追うだけで吐き気を覚えた。

連休三日間はスマホを伏せて過ごした。もうSNSはやめようと思った。懲り懲りだと思ったから。身が持たないし。

こんな無法地帯に炎上するような話をホイホイ提供した自分は、自業自得だったのかもしれない。わたしが悪いのかもしれない。だけどさ、見たくなければブロックでもミュートでもすればいいじゃん。そのための機能じゃん。そう思ったら今度は怒りが沸いてきた。

怒りの感情を持て余しながら、スマホは片時も離さなかった。「ここが炎上会場ですか?あーこの親はダメだわ」「これだけRTされたんだから満足してんじゃないのwww」炎上にふさわしい、人を罵るということはこういうことかとクソリプ上等のお手本を見せつけられた。そして目にとまったのが

「カス」だった。

カス、カス、カス。
わたしの人生を振り返っても、カスと言われたのはこれが始めてだった。カスとはなんだろう。カス。それはくだらないものを指すそうで、「屑」と同じなのだとか。これには全身が凍りついた。わたしの家族のことを全く知らない人からの、突如言われたカスという言葉。息子に発達障害と診断がつき、どうやって生きていこうかと大粒の涙を流してもそれを振り切るように前を向いて動いてきた。何故どこの誰かも知らない人にわたしの全てを否定されることがあるのか。そんなことがあっていいのか、あってたまるかという思い。それとは裏腹に喪失感は大きな雪崩を起こしていた。もう立ち上がれなかった。

そんなときに出会ったのがnoteだった。

そこは平和だった。

自分の思いを自由に表現できる場所で、その人の文章を読んだ人がそれに対して思いを伝えていた。発達障害に関する記事を中心に眺めてみたが、嘲るような心無い意見を投げつけている人はいないようだった。ここはいい。居場所は複数あった方がいいと聞くけれど、SNSでも同じことが言えるのかもしれない。わたしはnoteに公開する記事を書くことへ魂を全振りした。少しずつ心が落ち着いていくのを感じていた。

旧Twitterを始めたのは人と会いづらくなっていたコロナ禍の時期に、家族以外の誰かと繋がりたくなったからだ。障害のことを呟く垢があると知り、転がるようにのめり込んだ。そこでは普段会えないような先生方もいらっしゃって、障害の知識や対応力を高められるかもしれないとワクワクした。デイサービスは利用していたが、個別療育はコロナをきっかけに退いていたので、親である自分が学ぶ場を確保できていなかった。

楽しみが増えた理由はもう一つある。それは同じ障害を持つ子の親御さん達と、SNSという媒体を通じて繋がっていくことだった。悩みを抱えているのはわたしだけじゃないのだと、ひしひしと伝わってきた。皆それぞれに不満や不安はありながら、子供のこれからの未来を想い、迷いながらも毎日を生きている。同じ立場だからこそ分かる痛み。理解してくれる相手だからこそ、その心情を聞いてみたいし聞いて欲しい。自分一人では葬れない思いとか、投稿し吐きだすことで癒やされる心とか。それを求めてもいい場所がTwitterだった。あの息の詰まるようなコロナ禍に、わたしの鬱々とした心を和らげて夢中にさせてくれる存在だった。

そしてTwitter(X)には、成人の発達障害を名乗る人達もいて、どう足掻いてもやってくる息子の未来を想定するのに有り難い存在だった。ここは情報の宝の山だ。やめたくない。時々はその言い方どうなのよと思う人もいたけれど、さらっとかわすよう努めていた。相手の顔が見えないのは良い点もあるけれど、言いやすいという点もある。それは承知しなければいけないなと思うことも増えていた。それを加味しても、共感してくれる人達の存在は自己肯定感の低いわたしにとって「わかるよ」「つらいよね」「大丈夫だよ」と頷いてくれる味方に思えた。

炎上し心を砕かれ、1ヶ月以上鍵垢の状態になっていた。元々投稿の多くない垢だったのにさらに投稿頻度は減っていた。それでも離れないで見守ってくれる人達はいて、ネットにはネットならではの繋がりがあることを知れた。鍵を開けてからは、攻撃されたくない思いが勝りふんわりとした投稿をするようになった。それは今でもそうしている。そのふんわりを見てくれる人と繋がっていられるのなら、充分幸せだなと思うようになった。元々は自分の為の勉強垢のつもりだったし、話をすり替えて罵倒してくる他人の為に気持ちをザワつかせるのがつくづく嫌になったし。自分の使いやすいやり方で翻弄されないでのんびりやろう、そう思っていた。

そんなときだった。あの方の投稿が被害に遭っているのを見たときに、わたしのなかの許せないという感情が噴火した。ここ(X)は本来、誰もが書きたいことを書いていい場所で、ましてやその方の投稿内容は対応全てが尊敬に値するものだった。どう読んだらそんなふうに考えられるのか、障害というイメージだけで読んだのか、斜めにでも読んだのか。障害がある子を育てるということは、周りの定型児とは違うのだということを否応なしに考えさせられる。障害児の親が塞ぎ込んでしまうことは少なくない。それだけ精神的に重くのしかかってくるものだからだ。そんなやり切れない思いをSNSに呟き供養して、救われることはとても多い。秩序に反したものでもなく、障害児と生活していればそれを経験する人は多いだろうことでも、無知な人ほどああするべき、こうするべきだと言ったりする。そんなものは後出しジャンケンと同じこと。あとからなんて、何とでも言える。


あの日炎上し、標的になった自分と重なったのかもしれないし、あの時わたしを擁護してくれた人へ相手は違うけれど恩返しがしたかったのかもしれない。以前からその方の文章を拝読していて、日々我が子と真剣に向き合うその人を守りたいと思ったのかもしれない。飛び込んだ理由は一つではなかったと思うが、あの時の感情を自分でもうまく言えない。ただ、どうか傷つかないでほしかった。あなたの気持ちに共感している人はたくさんいるんだと、その方に届いてほしかった。


こちらは2022年1月の はやしさん(@iori_chandesu)の投稿を拝借したものだけど、これがとても的を得た呟きだなと今でも思う。

だいたいさ、ツイートなんて吐き出し、いわば大便なんです。大便がTL流れていってるわけ。あなたの大便気に入りましたよ、が、いいね。この人の大便見てやって〜〜!がリツイート。あなたの大便はうんこですね、ってわざわざ言うやつなんなの。マジ。なんなの。ほっといてよ。

はやしさん(@iori_chandesu)のツイート(現X)より引用


わたしが思うのは、その人の投稿はその人のもので他人が侮辱するなんて論外だっていうこと。その人の気持ちを、思いを、こちらは読ませてもらっている立場だということをいつだって忘れてはいけないし、その叩くという行為自体が恥ずかしくてみっともないことなのだと、わきまえていなくてはならない。自分と相手はどこまでいっても違う人間で、だけど近寄りたい、この人の発言が気になる、もっと知りたいと思うとき、常識の範囲で話しかけることでお互いに楽しく交流できるんじゃないだろうか。どんなに気をつけて書いた文章でも、誰かにぶっ刺さることはある。そんなときは刺さった矢を引っこ抜いて相手に向けるのではなくて、ミュートやブロックをうまく使ってかわせばいい。相手も同じ人間なのだから。

SNSで表現しているものだけがその人の全てではない。そこには映らない、その人だけの心緒は誰にでもある。人間はもっともっと奥が深い。画面を通して目に触れているものは、その人のほんの一部分だということを忘れないでいたい。



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