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私が台湾に留学することになったワケ②~中国語学部の洗礼~

こんにちは!台湾留学中のナナです。
前回は、わたしが中国語を学ぶきっかけになった上海旅行についてお話しましたね。
今回は、無事に第一志望の大学に合格してからどのように中国語と向き合い、そして留学を考えるようになったのかについて振り返りたいと思います。

恐怖!中国語学部

憧れの中国語学部に入ったものの、わたしは中国語に関してまったくの初心者でした。
知っている言葉といえば「ニーハオ」「シェイシェイ(のちに、日本人のあいだでまかり通っているこの発音は誤りだということを知ることになります笑)」くらいでした。

幸か不幸か、わたしが入学した代の中国語学部のクラスには既修者やネイティブスピーカーの子が大変多かったのです。
先生に指されても、こともなげにスラスラと中国語を話すクラスメートを見て、焦りが隠せませんでした。

さらにこれはまったくの不運なのですが、わたしが入学した年はちょうど新型コロナウイルス流行1年目、まだ「ウィズコロナ」なんて考えはなかったときでした。
授業はすべてオンラインでおこなわれ、画面の向こうの同級生たちはどんな子たちなのか、なにを考えているのかさえサッパリわかりません。

わたしは特に中国語の発音が悪く、発音に大変厳しい中国の先生からかなり頻繁に注意されました。

いま考えれば、自分の発音が日本人にしては悪くないレベルにあるのは本当にその先生のご指導のおかげなのですが、当時のわたしはそのように達観できるほど余裕がありませんでした。

小・中・高と、いってみれば「優等生キャラ」で生きてきたわたしは、全員の前(しかも仲良くもなっていないクラスメートの前で、zoomのカメラをオンにした状態で、です)怒られたりするのがなんとも恥ずかしく、つらい時間でした。

授業前になると、家でオンライン授業を受けているにもかかわらずお腹が痛みましたし、先生に怒られたあとはこっそりカメラオフにして泣きべそをかいてしまうなんてこともありました。

しかしわたしは昔から往生際が悪いというか、自他ともに認める「負けず嫌い」です。
別に「自分に負けたくなかった」なんてカッコつけるつもりはありません。
どちらかというと、自分を叱ったその先生をギャフンと言わせたかったのです。

そしてわたしは中国語の沼にハマった

それからは、初学者なりに一生懸命予習や復習に励みました。
機会があればまた別記事で書こうと思いますが、現地の人と会話練習ができるアプリを入れたりなんかもしました。

いつしか、あんなに恐れていた先生に叱られることが少なくなっていたような気がします。

あるいは、先生が「うまくなってほしい」との一心から自分を指導してくれていたことに気づき、注意されることを気に病むようなことがなくなったからかもしれません。

いずれにせよ、事の発端は小籠包でしたが(前回の記事を見てくださいね)、やはり理由はなんであれ必死で取り組んでいれば、自然とその物事に対してさらに関心が深まり、どんどん深みへとハマっていくものなのでしょう。

2年生のときには、文化祭の出し物のために中国語で脚本を書くことに挑戦したり、オンライン留学に挑戦したりしました。

気持ちは留学へ


ただ、この頃になるとどうしてもなにか「物足りなさ」を感じるようになっていきました。
中国語の授業を受けるのはもちろん楽しいし(2年次には、全面的に対面授業が再開していました)、オンライン留学もかなり得るものが大きかった。

ただ、自分が今やっているのは「日本人が学んでいる中国語」「教科書通りの中国語」であって、リアルに話されている言語でないような歯がゆさがありました。

そう思ったのは、ネイティブスピーカーの友達と話す機会が増えたからかもしれません。

オンライン上や対面で何人か中国や台湾の友達と話しましたが、彼らから発せられる、いわゆる話し言葉・若者言葉などをわたしはほとんど聞き取ることができず、ただ何となく理解しているフリをしてうなずくのが精一杯でした。

しかも結局、日本に来ている、あるいは日本の人と積極的に関わろうとしているネイティブスピーカーたちは日本語にかなり精通しているかたが多く、わたしが理解していなかったり、口ごもったりするたびに日本語で丁寧に解説を加えてくれました。

とてもありがたいことではありましたが、同時に「これではいけない」という危機感も強まりました。

自分は中国語専攻なのに、表面的な中国語を理解するのみにとどまっていていいのだろうか。

中国語が中途半端なレベルのままで就職し、その後いっさい中国語とかかわらなくなってしまったら、これまで学んできたことはどうなるのか。

こんなことを考えるようになりました。

わたしは、中国語を単なる趣味で終わらせたくありませんでした。

中国語の能力を磨いてネイティブの人たちと腹を割って話したかったし、自分が必死で中国語を身に着ければ、将来自分が何をやりたいか、どうキャリアに活かしたいか、自然と見えてくるのではないかと思いました。

日本というぬるま湯で中国語を学んでいたのでは、永遠に日本語ができるネイティブたちに甘え、なんとも中途半端な語学力だけ身に着けたままで大学生活を終えてしまう。そんな気がしました。

「大学生活は人生の夏休み」とよく言われます。
たしかに、大学生は有り余るほどの時間があります。
どう時間を使うかはその人の自由ですが、ただ、夏休みが終わったとき、あとには何も残っていなかった、なんていうのはまっぴらでした。

「中国に留学したい」

2年生の秋、はじめて強く思いました。

わたしの大学では、派遣留学の制度があります。
現地の大学とこちらの大学の生徒を交換するかわりに、自分の大学に払っている学費で現地の大学に留学できるという仕組みです。

多くの人は、2年次に申し込みをすませ、3年次の秋から留学を始めます。
自分の大学に学費を納めればよいので、普通の留学形態に比べて費用の節約にはなる反面、3年次から1年間留学するので、就活や卒論のことを考えるとどうしても1年留年する必要があります。

両親はわたしに4年卒業してほしいと思っていたこともあり、最初はかなり渋い顔でした。
しかし、自分がなぜ留学したいのかや、留学にかかる費用の見積もり、学内の奨学金制度を使えるかもしれないことなどをじっくり説明し、ようやく許可をもらうことができました。

それからも学内の選考などがあり大変でしたが、なんとか派遣留学の資格を得て、晴れて中国・北京語言大学に申し込めることになりました。

申し込んだ時点では、コロナの影響で留学生用のビザ発給めどはたっていませんでしたが、留学するのは1年後。そのころには、きっとコロナも落ち着き、往来も再開しているだろう。

そんな甘い考えだったのです。




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