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能力主義と職場ガチャ

マイケル・サンデルの「実力も運のうち」を読みました。能力主義が偏見の源であり、学歴が低い人を見下す社会構造がアメリカの政治の中心的なテーマであること。トランプ旋風の背景について合点がいく内容でした。知的労働が高い報酬を得て肉体労働は低い報酬を得る。高い学歴をえられないのは、その人の努力が足りないからだ、だから努力をしない人を見下してしまう。知的エリートのそんな心理が社会の大多数を占める非エリートの怒りを買っている、という話です。

そこから派生して、職場の能力主義について考えてみます。

職場でも、ハイパフォーマーやローパフォーマーという言葉があります。職務に対しての期待値を満たすかどうかで評価をするわけですが、期待値は部署によって大きなばらつきがあります。極端な例でいうと、こちらの部署でハイパフォーマーでも、違う部署ではローパフォーマーということが起こりえます。

ただ、若手であれば、たまたま配属された部署での評価が、自分自身の能力を測る絶対的な物差しになってしまうケースがあります。これは自ら希望した部署だったとしても起こりえます。やりたい事が得意なこととは限らない。さらに、「自分に自信がないから自分のできることと真逆のことをして自尊心を満たしたい」という心理もあります。だからこそ、自分に合った職場を見つけるというのは、運の要素が非常に強いと感じます。言ってみれば職場ガチャで当たりを引くかどうか、ということですね。

管理職の立場からすると、自分の部下で伸び悩んでいる人がいたときに、その人の能力の絶対水準の問題ととらえてしまうケースが多いのではないでしょうか。単にその業務に合っていない、つまり適材適所ではない、という可能性を考慮せずに、「なんでこんなこともできないのか」と低い評価を与えてしまう。それが、部下本人の自己肯定感を低めてしまう。その結果、委縮して悪いサイクルにはまってしまったり、反発や無気力な状態を招いてしまったりするわけです。そして上司は、それを叱咤激励して軌道に戻そうとする。でも、合わない仕事なので本来の良さが発揮できない。そんなやり取りが続くと大きなトラブルになったりします。部下本人にとっても、大きな傷になるわけです。

要は、環境ガチャで当たりを引けなかった、というだけの話なのですが、全人格を否定する方向に向かってしまうわけですね。

一方でそんな同僚を横目に、たまたま部署の期待値と自身のスタイルが合致した人は、「評価されているのは自分が努力した当然の結果だ」と思い、それが高じて、評価されていない同僚を見下したりするわけです。

とはいえ、私自身の小さな観測範囲だけを見ても、一つの部署で伸び悩んだ方が、別の部署でエース級の働きをするケースはたくさんあります。または、上司が変わると突然伸びたりする。能力が発揮できる環境を見つけるだけで見違えるような変化を起こす人もいるわけです。

会社全体の視点で見ると、人材難の中、職場ガチャのせいで能力を発揮するチャンスを逃した人を、ローパフォーマー扱いすることは機会損失でしかありません。中途入社でタレントを探そうとしても、なかなか難しいですし、良い人が自社を選んでくれるとは限りません。

だからこそ、一つの部署の働きだけで評価せずに、職務を変えたり異動をしたりして、その人の能力が発揮できる環境を見つける支援をする。レッテルを貼らずに、適材適所の場所を探す。特に、若手のころは自分を客観的に評価できなかったり、他の可能性の存在を知らないだけで、可能性を閉ざしてしまっていることがあるので、周囲の支援が必要です。

一つの価値基準で優劣を決めてしまうことは、人に対するリスペクトを失うことにつながります。だからこそ、適材適所を追求することは、人を活かす組織に不可欠ですね。ローテーションの良さはここだと思うのですが、ジョブ型になるとより難しくなります。だからこそ「仕事を外された」と思わせないような支援が必要だと思います。

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