9月17日の日記のようなもの

つくづく自分というものは信用ならない、と今日も帰りの電車で考えていた。

自分とはこうである、といった類の気づきや発見というのは実に脆弱なものである。なぜなら自分というものは時間の経過とともに絶えず更新されていくものだからだ。昔の自分に対しての気づきはすぐに陳腐化してしまう。

しかし人は、自分とはこういう人間である、と規定したがるものだ。規定できないものがあると不安になってしまう。だから、自分に対しての気づきが得られると「そうか俺はそういう人間だったのだ!」と嬉しい気持ちになって気分が高揚する。そして、その気づきに固執し保持してしまう。

自分を規定してそれに固執すると、良い方向にも、悪い方向にも、本来の自分のあり方が随分と制限されてしまうなあと感じる。

自分というものは絶えず移り変わっていくのだから、過去の規定に固執することは、自分を誤った枠組みに嵌め込んでしまうことに繋がりかねない。そうならないためには、常に自分の心の声に耳を澄ませていくことが大事だ。

しかしそれが案外に難しい。心に余裕がないと、心の声はどんどん小さく、遠くに入り込んでしまう。常に心をスッキリさせて、自分とゆったり向き合う時間が必要なのだろう。

その意味で、逗子に移住したことは間違ってなかったように思える。適当に暮らしているとすぐに虫が群がってくるので、しっかり生活する必要がある。生活するようになって思ったことは、生活をするということは、日々の生きることについてのあらゆる行為に意識を向けるということだということだ。そうしていくと、心の声を聴くための準備が整えられていくような感覚がある。そして、生活を通して意識が自分を循環するようになると、今の自分がやりたいこと、というのが見えてくる。

何に喜びを感じて、何にストレスを感じているのか。リセット状態で今ここの自分の心の声を聴くと、「自分ってこういう人間だ。」という気づきからは随分と離れたところに今の自分がいることに気づく。この時初めて、更新された自分に気づき、固執していた考えから解放されて、今の正直な自分が立ち現れてくるのだ。

そんなわけで、自分にとって必要ないもの、逆に必要のあるものを選び直そうと思う。もう心が動いていないな、必要としてないな、と思うものは、思い切って手放していこう。心が動いて惹かれていくようなことには、積極的にチャレンジしよう。

常に自分に誠実に。心が喜ぶことをやっていこう。




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