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日々をつまらなくしていたのは自分だった

朝11時。布団の中で、SNSパトロールをかれこれ1時間も続けている。

今日は山の日。お盆の連休初日。SNSの世界では、飛行機やら新幹線やらに乗って、みんなどこかに出かけているようだ。僕は布団からすら出られない。

「楽しいことがねえ〜〜〜。つまんね〜〜〜。」

最近、その日楽しいことがないと、布団から出られない。起きたら待っているのは"タスク"ばかりだから。

脳内で必死に「今日の楽しいこと」を探す。でも思い浮かぶのは、

「朝からレッドブルキメる」
「近所のバイキングにいく」
「昨日行った家系ラーメン屋にあった坦々麺を食べに行ってみる」

…発想の主導権を、完全に舌と胃に奪われてしまっている。心がはたらかなくなっている。

12時近くなっても布団から出られず、Twitterをスクロールしていると、好きな作家さんが著作の一部を公開していた。なんとなく読んでいると、こんな文章が出てきた。

考えている時間はなかった。
私はカバンの中からサバ寿司を取り出すと、診察台の上にあぐらをかき、下半身裸のままもりもりと食べた。
感受性と味蕾は離婚していた。啜り泣きをBGMに食べるサバ寿司は、とんでもなく美味しかった。サバの酸味と米のふくよかな甘さが、全身の細胞一つ一つに沁み渡った。私がどれだけ迷っていても、不安でも、私の体の方は変わらず食べ物を欲し、腹の中の子を育てる気満々なのである。そのことが、なんだか心強かった。

『わっしょい妊婦』小野美由紀

この本は、自身が妊婦となり出産を迎えるまで心の変化を描く自伝的エッセイなのだが、やけにこのサバ寿司のくだりが気に入った。

「京都のサバ寿司ってほんと美味いよなあ。」と思ったと同時に、切迫した状況でも、かき込んだサバ寿司の美味しさをちゃんと感じられる感性と細胞が素敵だなと思った。

そのとき、「そうか、日々をつまらなくしてたのは自分だったなあ。」と思ったのだった。

日々をつまらなくしていたのは自分だった

会社員をしながら大学院生をやってると、「タスクがない」という状況が基本的には無い。「仕事が休みの日」は、「論文を進められる日」になる。
いかに効率よく仕事をこなし、いかに仕事以外の時間を有効活用し論文を進められるかが、日々の生活の中心になっていく。パズルのように、隙間をできるだけ生産活動で埋めていく。

仕事も研究も、心からやりたいと思って選んでいるはずなのに、いつしか生産性に支配されてしまっていたんだなと思った。

仕事は売上やKPIを追うだけのゲームと化し、全ての業務が数字を上げるためのものとして単純化され、数字だけ見て一喜一憂する日々。
最近、毎週ユーザーインタビューをする時間を作っているのだが、そんな貴重な機会も、数字に活かせる発見はないかという考えが先行してばかり。対話なのに、まるで顕微鏡で標本を観察するかのごとく一方通行で、自分から心を通わせようとしてなかったなと思う。もったいないことをした。

研究は文字数進捗生みゲームと化し、ちょっと書いては文字数カウントして、何文字進んだと喜んで。一体自分は何をやっているのだろうか。
気づきの山であるはずの文献は、使える箇所だけをAIのようにスキャンする素材集と化し、論文に使えなさそうな本は、面白そうでもすぐに捨てていく。

こんなことばっかりして、楽しくなるわけがないやないか!

この世界とどう向き合うか

自分の心のリソースは有限。しかも自分が想像してるよりとってもちっぽけなんだと思う。当然、やることが多ければ、心のリソースも効率化をはからなければならない。

効率化のための最もよい戦略は、世界を自分が認識しやすい形に変換すること。
僕の場合は、定量化ということになるだろう。
仕事なら、全ての業務を売上の世界に閉じ込めればよい。そうすれば、売上に繋がらない業務とか、人の心とか、考えすぎなくて済む。
研究論文なら、文字数ゲームにしてしまえばよい。そうすれば、本も必要箇所だけ読めばよいし、興味があちこち分散せず、効率よく進捗だけに集中できる。

だけど、そうやって世界をわかりやすくすればするほど、この世界が本来そのままもっている美しさがまるまま削ぎ落とされて、自分のちっぽけな認知で構成された、単純でつまらない世界に成り下がってしまうのだろう。

ほんとうは全てが特別

京都の空は本当に綺麗だ。特に夕空は、毎日色や風合いも違って美しい。

本当は、空も、空気も、緑も、ご飯も、本も、人も、全部が無限の美しさを秘めてるはずなのに。

それをつまらないものにしてるのは、自分だ。

尊敬するアイドルプロデューサーのJ .Y.Parkが、

「ほんとうは、全ての人が特別です。」

と言っていた。本当にそう思う。人だけじゃなくて、この世界の全てが、特別だ。

ブッダも言っている。
人は分別(≒認識)があるから、そこから苦しみが生まれる。分別をなくせば、苦しみはなくなる。そこに安楽のさとりの境地があると。
自分の認識こそが、苦しみの元なのだ。

もちろん、この社会では、自分一人で自由には生きられないから、認識だけでどうこうなるとは思わない。
でも少なくとも今の自分は、自分でいかようにも日々を面白くできるはずだと思った。

みんなはどうだろうか。みんなはどんな世界を生きているのだろうか。

僕はなまじタスクゲームが得意だから、すぐになんでもタスク化して、せっかくの日々をありきたりなものに変えてしまう。
それで生きやすくなっている側面ももちろんある。でも結局なんだかつまらないなあという気持ちになって、布団から出られなくなるのだ。実は自分でつまらなくしてるのにね。

みんなはどんな世界を生きていて、どんなふうに物事をみているのか。
みんなの世界を覗いてみたいなと思った。

今日書いたことは、忙しくてもできるだけ心に留めておきたいと思う。
世界を自分のちっぽけな認識の世界に押し込めず、そのまま受け入れて、味わっていく時間を作っていきたい。

そこでしか、本当に美しいものとは出会えないと思うから。


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