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テレワークの日の朝、上司からメールが来た。

都内の感染者がまたも増加を始め、遂に小池百合子都知事がこれは第2波と発言した昨日。緊急事態宣言解除であっさりテレワークを終了した私の勤め先も、またもやローテーションテレワークに逆戻りした。

みなさん、テレワーク、好きですか?

私は、すごく好き。

効率が下がるとか言われるけど、出社時の3倍は集中して働ける気がする。成果も確実に出ている。

なぜなのか、それは圧倒的に気楽に働けるからだ。別に音楽掛けながら、部屋着で働いてるとかでもない。なんなら朝は通勤時間の代わりに散歩してるし、メイクも服装もバッチリ出社モード同等だ。

ではなぜ気楽なのか。それは、「人間のディテール」を感じなくて済むからだ。

オフィスにいると感じる、誰かの視線とか、溜息とか、表情とか、話し声のトーンとか、テレワーク中はそうしたひとつひとつのディテールから解放される。それが私の精神的負担を減らしているのだと思う。

私は恐らくいわゆるHSPというやつで、あらゆる人の中に埋められている、不安や心配や不機嫌や苛立ちの種を見つけるのが、凄く得意だ。人間のディテールに反応して音を出す、人間地雷発見機みたいなものだ。

会社が地雷原なら、在宅はオアシスだ。地雷はひとつも埋まっていない。確実に無い、ひとつもない。他人がいないから。
ネガティブに解釈する材料が無いから、ネガティブになりようが無い。センサーが休まるから、心も休まる。

誤解されないように言っておくと、私の会社に変な人はいない。ちょっとしたことで不機嫌になる人や怒鳴る人はいない。人間性は皆まともだし、非常にやさしい。
おかしいのは私のセンサーなのだ、常に過剰反応している。実際には地雷が無い場所でも、勝手に警告音を鳴らしてしまう時がある。ビクビクしながら働いてるわけじゃない。やさしい人たちに囲まれて、私もいつも笑顔だ。だからってセンサーが切れているわけじゃない。稼働しっぱなしのそれが、たまに疲れる。

だからテレワーク期間は、息継ぎみたいに楽だ。そしてディテールから解放された私は、少し気が大きくなるみたいだ。

電話で言えなかったことも、メールでなら言える。コミュニケーションが希薄にならないようにって大義名分を盾に、普段は照れる絵文字だってつけちゃう。
いつもは鑑賞者で、受け手側の私が、堂々と舞台に立って演説してみたくなる。観客の顔も声も表情も見えないから、どう思われるかなんて気にならない。

テレワークしていると、人間はディテールで出来ているな、と思う。

それが欠けたら、こんなにも気楽だ。

でも、と、同時に思う。ディテールがすべて欠けたら一体何が、人間を人間たらしめるのだろう。だって、私はディテールに救われたり、癒されたり、恋したりもする。表情、しぐさ、声、歩く時の癖。

出社しても、テレワークの時みたいに周りを気にせず働けたら良いのに。ひとつひとつのディテールをネガティブに捉えずに、いちいち過剰反応せずに過ごせたらいいのに。このまま、気の大きい自分のまま、明日も出社できるかしら。

そんな風に願っても、根っこは決して変われないだろうと、私もどこかで分かっている。何もかもに気付くのはしんどいけれど、それが私の良さでもある以上、仕方ない。私は誰も気付かないことに最初に気付く、炭鉱のカナリヤとして生まれたのだから。

「おはよう。テレワーク頑張って👍」

上司からメールが来た。
やさしいな、と思った。

みんな気を使ってるのだ。いない人間が疎外感を感じないようにって。
それにこの人は、私が最近元気のないことを、多分よく知っている。落ち込んでいる時の私の態度は酷くて、きっと本当に死にそうな顔をして、みんなに迷惑をかけているはずだ。

だけど「しっかりしろ」なんて一度も言われたことはなかった。私が自分からしっかりするのを、ただ根気よく待つだけで。

あぁ、もし私が本当にカナリヤならば。この人のやさしさの漏れ出てくるのに、どうしていつも無頓着でいたのだろう。身体の中に生まれつきのセンサーがあると知っていて、それを別の目的のために使ってみることを、なんで考えなかったのだろう。例えば自分を守るために誰かを恐れるのではなく、誰かを守るために誰かを愛するとか。

不思議だと思う。テレワークの日は、いつも無視していた誰かのやさしい気持ちがよく見える。

「おはようございます。頑張ります👌」

送信ボタンを押す瞬間、私は少し、自分を恥じた。




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