見据えるより見つめる

都内にある音楽大学のサークルが、クラシックアレンジでJ-POPを歌い演奏している動画を知った。

瑞々しくてとにかく楽しそうで、画面には清々しい空気が満ちていた。

自分が学生の頃にこんなワクワクするサークルがあったら入りたかったなー、と口にしてみた直後、
いやいや当時はそんな思考にならなかったでしょう、とツッコんだ。
私も音大を卒業した身であるので、キラキラとした瞳で音を重ね合う姿に親近感を覚えたのだ。

音大へ進学することの意味を問う書籍を見かけたことがある。
問題提起される事柄が多いのは今も変わらないのかと、諦めと共に悔しさも湧いた。

受験することを決めたとき、
卒業後の進路に苦しむことになるだろうから、幅広い勉強ができる大学に進んだ方がよい、と反対寄りの意見にも遭った。

実際、音大生だった20年程前、やみくもに大手ラジオ局やらレコード会社やらに憧れた結果見事撃沈し、心に「役立たず人間」のレッテルを貼り絶望した。
誰かに誇れる長所なんぞ探っても漁っても見当たらなくて、エントリーシートはいつも苦し紛れのオンパレードだった。

今の若い世代の方々は、自分自身や周囲を冷静かつ客観的に見るのがお上手だなぁ、と思うときがある。

自己分析なんて、おばさんはつい数年前にようやくしましたよ。
何事も、生きる上で必要に迫られないとできないタイプなんだろうな。

大学時代のハイライトといえば、ひとり暮らししていた友人宅で夜通し話したこととや、「笑っていいとも!」の観覧に当選して大好きだった中居くんを生で見られたことだもの。

後悔はないです。いやあるか。
もっと真面目に貪欲に、音楽を知ろうとすれば良かったな。

DTMの進化と広がりによって、音楽家を目指す人が増えているような感がある。
音楽の専門的な勉強を経験していなくても、素晴らしい作品を生み出したり、聴衆を引きつける演奏をする方は多いのだろう。
専門的な知識を入れていないからこその、自由な発想が功を奏しているという向きもある。

確かにその通りだとも思う。
音楽人が持つ三種の神器は、多くの引き出しと表現欲と思い切りの良さなのかなと。
けれど、音大や専門学校を選んだ人達にもそれらはあるのだろうし、なければそもそも受験しようというポテンシャルも生まれないのではなかろうか。
あっ、でも稀に私みたいにひとつの神器も持たず何も考えずに入って特に何も得ずに卒業しちゃう子とかいるからそんな風に思われるのだとしたらどうしよう。
(謙遜でも自慢でもないので親に申し訳ない)

ただ、すっとこどっこい炸裂だった学生生活でさえも愛おしく、あの日々のお陰で私は今こうしてnoteを書いているんだろう。
先述した動画が、心に風を吹かせてくれた。

誇れる実績とか体験とか並べなくても、常に目の前にあって自分を存在させてくれる環境=「今」がやがて血肉になり、誰に披露する必要もない自分だけの豊かさを伴うのだろう。

何も持っていないわけではなく、何者でもないだけ。それを受容すると世の中がフラットに見えそうだ。

持っているものを差し出しても、不要と返される時はきっとある。
でも、役に立たないと捨てる必要なんてない。
誰かにあげるために、自分の糧は存在するんじゃないから。

未来に繋がることを前提に、経験を増やすのは本末転倒。今からでも、些細なことからでも
、自分の風向きを大事にしていきたい。

クラシックバージョンの「希望の轍」を演奏していた学生の皆さんを観て、そんなことを考えた42歳主婦でした。

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