見出し画像

いじめといじり

 このところ外出も出来ない、人と集まることもない、学校もない。子どもたちにとってはただゆったり時が流れていくが。そんな時我が子がお笑い番組を見ながら「日頃大笑いすることもないから、こんな番組があってありがたい」と話していた。
 なるほど、家にじっとして美味しいお菓子を焼いたり庭で花を育てたりしてみても、大笑いすることはない。心の凪と同様、大笑いすることも心には必要なこと。お笑い芸人の仕事は本当に尊いな、と思いながら一緒に番組を見ていた。

 ふと思った。私はお笑い芸人の漫才やコント、芸が好き。何も考えずに笑える。でもバラエティ番組の「いじり」は苦手。いじられる方の気持ちになって、気まずそうに笑うその人を見ながら「バカにされながら笑うしかない姿」に悲しさすら感じてしまうから。でも、そう感じさせない人もいる。
明らかに誰かを小バカにして安易に笑いを引き出す人もいれば、話術すら芸という程上手にその人の特徴の良さを引き出して一緒に笑いを紡ぎ出している様に見える人もいる。

 そこで思い出したのは、学校の先生。「笑い」を産み出すために、最近この質の悪い前者の「いじり」をしたがる先生が多いことを感じる。
 確かにこれは誰でも簡単に笑いを取ることが出来る方法だ。腕も分析も必要ない。だからこそ慎重になって欲しいと思う。
 見ていると、先生の中で「いじり」が好きな人は生徒だけでなく後輩など自分が上からいける相手のことをいじる。いじると笑いが起きると学習してしまって、逆らえない相手を捕まえては自分の笑いのために使うのだ。相手が困惑して苦笑いを浮かべていることに気付かないのか、それともその顔が見たいのか。
 そして最も留意すべきは、それを感じ取っている子どもたちが多いこと。そんな子どもたちが先生の作り出す意地悪な空気の中で、無理をして笑っていること。私はその子たちが「先生が許せない」「〜くんがかわいそう」と言っているのを聞くので、その先生の意図と受け手側のギャップにしばしば驚く。
 もちろん心から笑っている子もいる。それはもっとタチが悪い。先生のその行動から「人をいじることで笑いが取れる」ことを学んでしまうのだ。
そして同じことを後輩やクラスメイトにする。当然の流れ。
それが「いじめ」として大きな問題になるなら、その元になった「いじり」も同様なのではないか。

 「テレビで面白かったから」も罪なことだが、テレビは消すことも見ないことも選べる。でも毎日通う学校の先生がそうだったら。逃げられない。
実際先生が軽い気持ちでいじったことで学校に行けなくなった子を知っている。一人ではない。何人も知っている。

 「最近の子どもは弱くなりましたな」

 そうじゃない。
大人が子どものままなのだ。人の心に向き合うというプロ意識や配慮に欠ける安易な行動で、学校を害のある場所にしてしまっているのだ。

 冒頭で「上手にいじる人がいる」という話をした。「安易ないじり」を指摘された人は次にこういうだろう。
「あの人もしていた」「どこが違うのか」
 だから、ここではもう少しわかりやすく線引きについて考えてみたい。
実際、自分自身も指導者なのでレッスンの中で「笑い」が欲しい気持ちはわかる。人をいじることで安易に笑いを産み出すことの誘惑もわかる。そんな自分のためにも、ここにはしっかりと線を引いておきたい。

 今まで見てきた「上手ないじり」に共通するのは、子どもへのリスペクトが感じられるということ。その子との共同作業で笑いが巻き起こるというもの。それが決定的な違いだろう。自分が笑いを取ることだけに執着して安易に人を傷つけかねない先生は、子どもへの敬意が感じられない。むしろ子どもを踏みつけてでも自分が笑いを取ることに執着している様にさえ感じる。

 何のプロでも、腕を磨き続けることが必要で自分を成長させ続けることが楽しみにもなるだろう。子どもたちの根っこを育てる場所にいる人たちは、「子どもたちのための教育」だということを忘れてはいけない。そのために日々腕を磨き続け、子どもたちのために何が最善かを極めて欲しい。

読んでくださって、ありがとうございます。 もし気に入ってくださったら、投げ銭していただけると励みになります💜