日本と世界の教育者の違い

 英語の先生でありながら、「私英語話せていたっけ」と真剣に不安になってしまう程、日本での日常生活は英語無しでも十分可能である。
そんな中、「英語が話せて本当に良かった」と思う経験があったので、是非シェアしたい。

 年に一度、私には世界各国から日本に来て英語指導をしている方々と交わる機会がある。そこではたくさんの会議室で一斉にいろいろなプレゼンを見ることが出来て、その9割以上での使用言語は英語だ。
 今回私がタイトルに惹かれて行ったプレゼン、タイトルはズバリ "annoying kids" への対応について。"annoying"は、日本語にすると「うるさい」「困らせる」。更に今よく使われる言葉では「うざい」ということになるだろう。
 私自身、授業で困った状況が起きても「生徒が悪い」とは思わない。コンディションがそうさせたのだろうし、私自身のコンディションが整っていなかったのかな、とレッスン後に省みる材料にする。
 しかし私は日本の多くの教師の研修での「困った子への対処法」として「その子をどうしたらみんなと同じように動けるように出来るか」などその子自身を動かすテクニックばかりが紹介されているのに違和感があって、海外の先生の判断や考え方が知りたかったのだ。

 教室に集まったのは30名程度その中に日本人が2-3名いたかどうか。プレゼンとはいえ、ラフな格好で現れたアメリカ人のプレゼンターの先生は、ただリラックスした様子で前に座っているだけ。
時間になるとおもむろに「皆さんの生徒の中に annoying kids がいる人」と問い、ほとんどが挙手した。続いて「では、どんな風に annoying なのか教えてくれる?」先生方が口々に自分が困っている様子を説明。挙手スタイルではなくあちこちから意見が飛び出す感じ。これが欧米のレッスンスタイル。先生はファシリテーターとして人の意見を引き出し、皆は聞き合う。私はこのスタイルが大好きで自分のレッスンにも取り入れている。

 みんながひとしきり「授業中に友達にちょっかいをかける」とか「うるさくする」とか、どんな風に annoying なのかを話した後、プレゼンターの問いは続く。「では、先生方の気持ちを考えてみましょう。どうして annoying だと思うんでしょうね。」
そこでまたどんどん意見がシェアされる。「レッスンをちゃんとしたいから」「学びたい他の子達の邪魔になるから」
出てくる意見は日本でもよく聞く内容。
ただ、次にプレゼンターが話した内容が面白かった。
  「ということは、annoying だと思ってしまうのは、先生方がちゃんと授業を届けたいという熱意や愛情の現れなんですよね」
そしてこんな考え方を紹介した。
では、生徒に学びを届けたい、という私たちの気持ちをちゃんと届ける為に、そのannoyingな子どもも楽しめる様な工夫をしませんか、と。
例えばクラスの全員が楽しんでいるゲームでも、一人の子が楽しめなかったらその子のためにルールを変える。その方法の例を紹介してくれた。
その工夫が先生の仕事であり、苦労であり、醍醐味であると。

更に「子どもを変える」ことの危険性を優しく語られた時、涙が出た。
「子どもたちはそれぞれが力を持っている。もしその子を変えてしまう様なことをしたら、それは同時にその子の持つ大切な力も奪ってしまうことになるのだ」

 この考え方は日本ではあまりお目にかからない。
障害児と呼ばれる子どもたちが「差別を止めて欲しい」と言うと、今度は逆に「障害のある人には実はすごい力がある」と言われて励まされるけれど、彼らは今度逆の過剰な期待に苦しんでいる。
 そうじゃない。誰もが一人一人力を持って生まれて来ていて、同時に生活の中で困難なこともある。みんなそう。だから、困った時には誰かに助けを求められて、自分に出来ることでは人の力になる。それが出来ればみんな困らない。自分が困っていることを逆に「やれば出来る」と引っ張られて過剰な期待をされて苦しむ子どもたちは多く、またみんなに揃える様に強制されることで、自己肯定感なんて下がる一方。
 
 教育は希望なはずなのに。

 私が違和感を持っていたことを、スッキリ解決してもらった気がして本当に嬉しかった。
 冒頭にお伝えした通り、日本で普通に生きていく中で英語は必要はない。でも世界は広い。英語はこうして世界の考え方に触れるきっかけになる。子どもたちが英語を通して、世界のいろいろな考え方に触れることが大切。諦めていた自分自身のことをもっと素敵な存在だと知ることが出来るだろう。

 教育は希望。私にとって英語は必要不可欠。日本にはない世界の教育の素晴らしさを日本の先生にも伝えたい。

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