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いつも被害者な人

 私は若い頃からいろいろなバイトをしてきたから、10代の頃から大人を裏側から見る機会が多かった。その中で、大きく分けて苦手なタイプの大人が二パターンいた。

 一つは「自分の機嫌に振り回される人」。今後の人生で絶対に関わらない様にしようと思った。実に多かったことか。これが大人か、とガッカリした。私の周りの未成年とメンタル変わらんじゃん、と。大人だから余計にタチが悪い。
 そしてもう一つのタイプは「いつも被害者な人」。例えばお店で働いている時、表から見たら快く引き受けている様に見えるけど裏では「またこれ、させられちゃったよ」って言う人。いや「する」って言ってたよ、さっき。純粋な子どもの目にはそう映る。でも私はその純粋な子どもの目を50年持ち続けてしまっているから、未だにこの「いつも被害者な人」は警戒している。

 海外の人に「オーケーオーケー、任せとけって!」ってめっちゃ笑顔で対応した後「あいつら、調子に乗ってる」とか「遠慮ってものを知らんのかな」って言ってるのを見ると、寒気がする。同じこと海外で言われてるぞ、いや自宅で家族に言われてるかもね、なんて意地悪な心の声が口から飛び出しそうになる。

 友人ですら、後輩に「手伝いましょうか」と言われて「いいよ。私やっとくから」と答え、後輩が帰ったあとに「後輩なら、あと一回くらい聞くのが普通だよね〜」と言っていたのには唖然とした。日本語、難しい。使う言葉のみならず、回数も関係あるなんて!

 だから大人になった今でも、人の「僕やっておきますんで」とか「私しとくよ」とかいう言葉も時々警戒してしまう。言葉を丸々信じてしまうと「これ、させられちゃったよ〜」とか「遠慮しろよ」とか言われるんだよな...なんて想像してしまう。ま、私はどう思われても全然いいんだけど、そういうトリッキーな会話にはあまり参加したくないし、それに惑わされたくもない。

 「誰かに〜された...」と被害者面するのは、どんな心理状態からなんだろう。「嫌なことだけど人のためにしてる自分、素敵」アピールなのか。いや、わからない。でも何にせよ常に誰かを意識して自分に矢印向いてないんじゃないかな、って思う。

 そもそも私は主体的に生きている人が好き。主体的に生きている人は、時に冷たく思えることもある。出来ないことは出来ないってちゃんと言うから。でも、その分わかりやすい。言葉を裏返してさらに斜めから見ないとわからない、みたいなわかりにくさがない。その言葉通りのまっすぐさを持ってる。矢印が自分向いてるところが好き。自分に嘘つく必要がないから、嘘がない。

 結局この社会の中で、人を気にしすぎるあまりにいつしか自分の心は置いてけぼりになってしまうしんどさを負ってる時点で、実際被害者なんだろうな。でもその加害者は人の目を過剰に気にしてしまう自分の中にいる、って気づいたら被害者生活から抜け出せそう。

 人として社会で生きる以上人の目は気になって仕方ないけど、せっかくエネルギー使うなら被害者面して不平言い続けるよりも、違う方向に舵を切る方に使いたいな。自分と、人と、まっすぐ向き合いたい。

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