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「誰かのせい」の反対は

 更年期真っ只中のアラフィフ女性である私が、ただただ日々それなりに凪いで楽しく暮らしている、そのきっかけになったことをメモしておきたい。

誰かのせい、のメカニズム(私の場合)

 こう書くとすごく自分に厳しい人みたいなイメージやけど、そもそも誰かのせいにすることの反対って「自分のせい」なんやろうか。みんなの中にその定義があるから、自分を楽にするには「誰かのせい」にするしかないってなってる気がするな。

 私は若い頃、すごくとんがってた。それなりに明るくて常識がある人に映っていたかも知れないけど、運転になるとクラクションは多用するし中指立てるし、酔っ払ったら多少いい加減になってもOKって思ってたし、とにかくいろんなものに腹を立てていた。そして「○○のせいで…」が必ず行き着く先。自分は悪くない、って証明するためにいつも誰かや何かのせいにしてその場の自分を安心させていた。でもね。

 そうしながらも私はずっと不安定な気持ちだった。今思えば…ってことはとにかくいっぱいある。元々超繊細な性格で生まれてきて、先生に名前を呼ばれただけで「今日学校で叱られた」としょげて帰っては、母親に「それは叱ったんじゃないと思うよ」と励まされる日々。人が悲しそうにしているのを見て悲しみ、痛そうにしているのを見て具合が悪くなる。そんな日々を過ごして、私は少しずつ「このままでは安全に生きられない」と思ったんだと思う。
 そして出来上がったモンスターは「私は悪くないのに!」と何か起きるたびに責任を何かに全フリして自分が喰らうダメージを最小限にしようとした。そう考えると抱きしめたくなる程健気だけど、きっと当時の私が今目の前に現れたらぶっ飛ばしたいくらい横柄で嫌な奴だったと思う。とびきり不安定で、いつも怒ってる私。

脱"人のせい" 脱"言い訳"

 さて。時は過ぎ。私は大好きな人と一緒に暮らすことになった。そして大好きな存在が増えた。一番大事にしたかった触るとポロッと壊れそうな自分自身はさて置いて、この人たちのために強くなりたいと思った。そこで初めて自分の行きたい方向と正反対の方向に引っ張る負の力の存在に気付いた。
 「○○のせいで…」の思考だ。この場合常に敵がいる。誰かを敵にしないと、自分が守れない。それが、ずっと時を一緒に過ごす大切な人に向きそうになって初めて、強烈な違和感を覚えた。
 でも片や「「○○のせいじゃなかったら自分のせい」とその矢印を自分に向けることが怖い私も、まだそこにいた。

 そんなある時、今では師匠と呼んでいるある方との出会いがあった。その方の言葉「仕方ないんだよ」が私を目覚めさせた。この世の中には「仕方ないこと」ってあるんだよ。だからね、それをどう動かそうって考えるんじゃなくて、その仕方ない状況の中でどうやって生きやすくしようかな、って考えるんだよ、と。目から鱗!私の心の中のモヤモヤがさーっと晴れていった。実に人生を始めて40年後のことだった。

 誰のせいでもない、自分のせいでもない、仕方ないことってあるんだよ。本当に。そしてそこをスタート地点にしたら、新たな世界が見えてくるんだよ。

視野を広げる

 私が英語教室オープン時からよく聞き慣れた言葉「英語で視野を広げよう!」ってのがあって。ずっと違和感があった。
 私自身は英語を使っていろいろな国を旅している中で、自分の中に許せることが増えてきた。意味のわからないこだわりが減ってきた。それはかなり自分の視界がよくなったことを意味する。でもそれって、英語を学んだことに直結してるのかしら。

 確かに英語を学び使うことは、視野を広げる一要因にはなり得る。自分の中にない発想の人と語り合う機会が増える。日本人同士でゆるっとわかりあっていた感覚が全く共有できない人たちとの語らいは、確かに自分の視野を広げてくれる。でも条件がある。それは「自分と人の違いを楽しめる」場合のみ、だ。自分と違う考えの人に腹を立てる人がいる。日本で討論がうまくいかないのは、しばしば「こう考えるのが常識だろうが!」とか「普通はそうは考えんよな」とか。目的が「共通する部分を確認する」になってしまっているからだと思う。それが私たちの癖でもある。それが良い時もあれば、違う風を自分に取り入れる時の障害になることもある。

 その時に「この人たちは、まだまだ経験不足だから」とか「ちょっと常識がない人たちですね」などその人のせいにしていると、結局同じところをグルグル回る。自分にない発想をありのまま受け止めることができてこそ、自分の中の新しい部分が刺激されて広がっていく。それを拒否して自分の居心地の良い場所の中だけで生きていく選択肢もあるだろうが、それは広がりとは言えない。

日々が発見

 私が「誰かのせい」「何かのせい」から離れて「仕方ない。じゃ、どうしよっか」という発想になってからは、私の中の風通しがとても良い。どんな話を聞いても「自分にはない考えだったけど、そういうこともあるよな」と感じ、でも自分だったらどうするだろう。と考えると意外とそのもつれた糸を解く方法が簡単に見つかったりする。「こうあるべき」に縛られていては、きっとその糸口は見つからなかっただろう。

 私はこうして自分自身のみならず人の話もなんとなく「へぇ」と興味深く聞いて、それはそれとして受け止め「じゃ、ここをスタート地点としたら何が出来るかしらね」と考える楽しさも知った。
 時々とんでもない痛みを伴うものもあるけれど。でも人生は何かを解決するためのものではなく、ただ日々を送る旅。その中でどうやって自分を楽しませるか、まっさらな気持ちで考えてその時その時の自分の声を拾いながら歩いていると、それがなんとなく凪な日々の連続になっている。

 「それってそんなにこだわるべきことかな」多くの人が最初にぶつかるのは、この問いだと思う。それを自分に向けることが出来たら、きっと凪の日々が待ってる。


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