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「いいね」では見えないもの

 私は一通りSNSを使いこなしている。元々心が動きやすい性質と、感動を共有したい!という「発信」体質であるのと同時に、自分で教室運営をしているので、広報・営業活動を専らこのSNS任せにしているからだ。昔、紙の広告を何千枚と刷っていた頃と比べてこのSNSの力は圧倒的。SNS任せとは言え、何をどう、どんなタイミングで発信するのか、また情報によってどのSNSを使ったら良いのか、などを判断するのは学びと経験が必要。試行錯誤しながら発信する日々。英語を習いたい、という声もSNSやホームページからと口コミの紹介から、それだけで十分になった。

 私が使っているのは、主にfacebook、LINE、Instagram、twitterだ。
私の場合、facebookは仕事仲間や友達との近況報告、LINEは日常の連絡や相談ごとなど、Instagramは教室名でアカウントを作っているので主に仕事でこんなことをした、という情報共有と時には教室運営者の日常も載せて親しみを感じてもらえたら、と思っている。そしてtwitterは匿名。なぜ匿名かというと「匿名でないと語ることが出来ない」事実を知りたいから。主に教育や教育にまつわる不登校や発達障害と呼ばれることで、問題を感じている人たちとの交流。こちらは自分の知識と指導者としての覚悟を深めるための活動。それぞれのSNSに日々いくつかの「いいね」がつく。

 最初その「いいね」の数は知らない間に私の関心事となった。「いいね」が付いているとホッとする。ついていない記事は誰の目にも触れずに無視された様な、悲しい気持ちになった。そして「いいね」が多くつく記事の傾向に自分が沿っていっている様にもなった。
 「いいね」がたくさんつくものこそが、正しい記事であるかの様に感じていた。

 そんなある日、メッセージが届いた。「いつも見ています」という書き出しで、私が書いた記事に励まされているという内容だった。最初は一通。それからポツリポツリとそういうメッセージが届く様になった。嬉しかった。しかし「いいね」をもらうことが「人と共有できた」ことの証明の様に感じていた私は、戸惑った。メッセージをくれた方々が「救われた」という記事は、ほとんど「いいね」がつかなかった記事ばかりなのだ。
 私が、「これだけは伝えたい」と思い切って書いてみた自分の特性や自分の過去、こんな辛い思いをしたけれど…という内容。誰も見てくれなくてもいいと無我夢中で書き上げたものだったが、上げてみたら「いいね」がつかない。その時の私は誰も関心を持ってくれなかったと思った。消してしまおうかとも思ったけれど。でも「いいね」を気軽に押せない気持ちの人もいる。そんな人たちの目にも確実に記事は届いていて、心の中でその方は何百回も「いいね」を押したと言ってくれる。
 見えるものが全てではない、SNS時代の落とし穴を見た気がした。深い深い落とし穴。

 それから私は、書きたいものを書き、伝えたいことを伝える。
「いいね」は一つの記号であり、励みにはなるけれどそれに自分の発信の基準を合わせることはなくなった。あの日の自分に届ける様に。それを投稿する時に心の中で祈る。
「必要な人の元に届けー」と。

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