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音のないざわつき

子供の頃、毎週土曜日の夜が怖かった。両親、わたし、弟がいて食卓を囲んで、そして寝静まる。いつもと同じ夜なのにその日の夜が怖くて仕方がなかった。底なしの寂しさのような、深い深い悲しみのような。読んでいた本を閉じて、夕暮れの窓に目をやると、そんなことを思い出した。さっきまで読んでいた小説が怪奇現象をモチーフにした作品だったからだろうか…こんなことを思いだしてしまうのは…けれどきっと違う。あの怖さはそんな恐怖ではない。

わたしは陽が落ちていくことを気にしながらカーテンを閉めて、そんな昔のことに思いを巡らせながら、昨日買い置きしていた食材で簡単に夕飯を済ませた。今日は土曜日だ。

年齢を重ねるにつれて忘れ去られていった怖さはどんな風に形を変えていったのだろう。食べ終わった後の食器を食洗器にセットしスタートボタンを押すとものすごい勢いで食器が洗浄されていく。その瞬間、あの怖さは今のわたしが手に入れたすべての生活へと変わったのかもしれないと思った。

わたしは8月で36歳になる。ちょうど半年前に離婚をした。離婚をわたしから切り出して3ヶ月後には、弁護士を交えての様々な法的な話し合いが始まって、半年後には離婚が成立していた。

「離婚してほしい」

「うまくいってるって思ってたのは俺だけ?」

しばらく呆然としながら、元夫はそんな風に言った。

「もしかしてまだ続いているとか?」

わたしは首を横に振って否定した。

わたしは結婚する前、正確には元夫と交際する前に不倫をしていた。相手は大学時代の先輩だった。先輩の結婚が決まって、大学時代のサークルの仲間と飲んだあと、一夜限りという約束で関係を持った。それが後に引けなくなってズルズルと二年ほど都合がいい時に会う関係になっていた。それが相手の奥さんにバレてしまったのだ。

「お金ならいくらでも払います。主人と別れてください」

ドラマの中で聞いたようなセリフを自分が浴びせられるとは思わなかった。呼び出されたホテルのラウンジで互いに人の目を気にしながら、わたしと不倫相手の奥さんと二人きりで話し合った。

「悪いのはわたしです。もう会いません。お金もいりません。」

「…でも…」

わたしのせいで、家庭が壊れていく。後々の事を考えたら、身を引いた方が自分の為だ。わたしが示談金を払うことを提案した。その時、相手の奥さんが提示した金額が大きく悩みを聞いてくれて、弁護士を紹介してくれたのが、その当時は同じデザイン事務所で働く同僚だった元夫。

「なんで不倫なんか?」

そう聞かれても”わからない”としか答えられなかった。理由が自分でわかっていたら不倫なんてしないだろう。

その後半年間、友人から自然の流れで付き合うようになって結婚まで至った。20代、家庭を持つことだけにあこがれを持っていて、結婚したら仕事を辞めてもいいと思っていた。

「子供欲しい?」

「俺苦手なんだ。でも、ほしかったら、全然いいよ」

わたしは自分のあこがれのためにためていた貯金のほとんどを不倫の示談金でなくしていた。

「二人だけの家庭もありだよね。」

婚姻届を目の前にそんな会話もしたことがあった。もし子供がいたらどうなっていたんだろう、離婚はしなかったかな…。結婚してわたしは別のデザイン事務所に移つった。その一年半後、原因不明の体調不良によって仕事をやめることになった。結婚生活は5年、何に不満だったかそれを思い出すとどれをとっても、本当に些細なこと。

お風呂から上がって、テーブルに置いてあるスマホを手に取ると、元同僚の女友達から近況をたずねるメッセージが届いた。彼女は今のわたしにリモートの仕事を紹介してくれた。はじめは躊躇ったけれど条件が良かったので紹介してもらうことを決めた。そして結果的に友達の顔も立てる事ができた。

わたしは女友達からの連絡に返信をしてテーブルにそれを置いてテレビをつける。冷蔵庫からビールを取り出し、ソファーに座ってグラスに注ぐ。テーブルに置いたスマホが鳴った。元夫からだ。

「もしもし」

「ごめん、今大丈夫?」

なぜかいつも謝るのは変わらない。

「うん。大丈夫だよ。何?」

「実はさ、彼女ができたんだ。一応知らせておこうと思ってさ。」

数秒間言葉に詰まった。

「そう、よかったね。おめでとう。結婚するの?」

「うん。ゆくゆくはそうなる」

できるだけ明るい言葉で対応して、電話が終わった。わたしは大きなため息をつく。無音の思いがテレビの音をかき消し始める。音はざわつきはじめ、わたしは寂しさを隠しきれなくなった。

おわり。
この物語はフィクションです。


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