ひとり

目の前にせまる卒論。怒涛の学生生活を駆け抜けるためのアルバイトに、インターン、これでもかという量の内課題、課題…


気づいたらなんだか忙しくてゆっくり自分の時間を取れていないことに気づく。


溜まっていく皿洗いに増えていくスーパーのお弁当の空。

私だけかもしれないが、皿が溜まる様子は自分の心に課題が溜まるのと比例しているようで、キッチンを見るたび「あー余裕ないなあ」と思う。


同時に自炊の時間ももったいないから、出来合いのお弁当を買って食べるしかなくて、美味しいんだけど何だか体に馴染まない味がする。


余裕がないのは何においてもいけない。


余裕がなくなれば自分にも相手にも求めるものが高度になり、『なんでこうしてくれないの』『なんでできないの』の不満が溜まっていってしまう。


自分の能力やキャパシティを見誤り、それに対して出来ないと自分を責めてしまう。

相手だって忙しいかもしれない、色々疲れが溜まっているのかもしれない。

それなのに相手の状況を鑑みず、『何でやってくれないの』が先行してしまう、これはいけない。


そう思って帰り道、駅から家を通り過ぎて1時間位フラフラと散歩した。

明日も早く起きなければいけないけれど、今家に帰ったらいい気分で寝れないなと直感的に思い、寒空の下特に目的持たずに彷徨った。


体を動かすことはいい。無駄なことをあまり考えずに済むし、身も心も軽くなってくる。


歩いているうちに『そういえば久しぶりにあのドラマがみたいな』と思って、DVD屋に立ち寄りレンタルした。


何にも縛られずに、ただ一人で目的もなくあるいたからこそ、こうやって思い浮かんだことがすぐに叶う。思いがけないワクワクを手に入れることができる。


そして帰り道、ふと見上げたら思いの外星が綺麗で、思いがけず気分は上昇した。これも一人で歩いたからこそ見れた景色だなあと思う。きっと人といたら空を見上げたりはしないから。


そうやって歩いて家につく頃にはもう尖ってた余裕のない自分は消えていて、『なんだかまあいっか』という気持ちになった。


1度冷静になれば、相手だって自分だって完璧でないのだから、少しくらい出来なくても、ちょっと嫌な部分があってもいいじゃんと思えた。


そう切り替えられたのは短い時間でも『ひとり』の時間を過ごせたからで、『ひとり』になったからこそ、相手の大切さや自分の価値を再認識できる。


何も『しなければいけない』という縛りのない、ただ『ひとり』の私になる、自由になる瞬間に、素朴で飾りのない気持ちが生まれて、優しい気持ちが帰ってくる、



忙しいとどうしても『ひとり』の私をおざなりにしがちで『みんなでいる』私から置いてけぼりになってしまう。


『みんなでいる』私は頑張っているけれど、『しなければ』の複数の概念に囲まれていて身動きは取りづらくて、その窮屈な空間にいることに優しさや余裕を消費せざるを得ない。


でもちゃんと時々立ち止まって、『ひとり』の私と向き合い労ってあげることで、周りの人も大切にできる余裕を取り戻すことにも繋がっているのだと思う。


だから本当は、下手でも体に染み込む(気がする)料理をつくって、夜にお風呂に入って、お皿もきちんと洗って、髪の毛もスキンケアも完璧な状態で毎日を終えるのがいいのだろう。


けどそれも『やらなきゃ』と思うと、義務化して『ひとり』の私が居なくなってしまうからそこのバランスは難しいなと、つくづく思う。


なんにせよすべてが『しなければ』に囲まれた生活は苦しい。それがたとえやりたいことの延長線上だとしても、現実は締切や約束などの縛りからどうしても『しなければ』になりがちである。と感じている。


だから時々、何も考えずに、ただ『したい』と思ったことだけを衝動的にやる、『ひとり』のわたしを回復させる時間は私にとって欠かせない。


これからもどうかその時間の大切さを忘れないでいられるように


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