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テクスト論に思うこと ~物語には、集合的無意識、人間の普遍的な性質が表れる~

 このマガジン「文学研究」は、文学研究の主な三つの方法論について書いてから、全く更新していなかった。

 理由は、このマガジンは、読んだ人が「アカデミックな文学研究」のことを知ることができるようにしたかったから。言い換えると、「正しい」ことを書こうと思ったから。だから、大学や大学院で学んだ、確かなことしか書かなかった。

 でも、文学研究の方法論の一つ、テクスト論は、文学の読み方を、読者に開いた。それまでの文学研究において、小説の読解、小説意図を理解することとは、作家の意図を理解することだと考えられていた。けれど、テクスト論では、小説の読み方は、読者がどう読むことができるか、ということが重要になる。作家が意図していなくても、論理的にその物語がそう読めるのなら、その読みは一つの可能な読みとして認められる。正しい、ただ一つの読み方は、ない。作家=神は死んだ。残るのは、読者=民だ。

 これが文学研究が辿った歴史なら、文学研究について語る際、「正しい」という概念に縛られていることには、意味がないんじゃないかと思う。特に、テクスト論が好きなぼくとしては、正しさに縛られていたことは、正しくない(笑)。論理的に筋が通っている、破綻していない、論証できるものなら、それは、アカデミズムの中で「習って」いないことでも、アカデミックなことと言えるんじゃないか、と思っている。

 だから、正しさから解放された上で、どうしてぼくが、小説が、文学が、文学研究が、テクスト論が好きなのかを、もう一度考えて、テクスト論の意味を再考してみた。

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 文学研究の歴史において、テクスト論は一度、「価値、意味がないもの」として認識された。

 テクスト論は、読者の自由に、物語を読むこと。作者の意図に縛られず、論理的にそういう読み方ができるのなら、それは可能な読みの一つだ、という考え方。この考え方に立つと、「論理的にそう読めるなら、どんな読み方でもいい」ということになる。文学研究の歴史において、テクスト論がアカデミズムの主流を占めるようになってから、無数の読みが提出され、その結果、研究する意味が見失われる。果たして、ある物語の、新しい、おもしろい読みを研究することに、何の意味があるのか? と。そこで、文学研究は、違う方法論を生み出した。物語は、その物語が作られた文化を表すものだから、物語を研究することは文化を研究することになる、という考え方。文化という現実世界の「意味があるもの」に接続することで、文学研究は、意味があるものとしての地位を確保しようとした。

 でも、ぼくは、テクスト論についてもう少し考えてみたい。

 物語の、新しい読みを探ることには、どんな意味があるのか?

 物語には、小説には、「そういう物語を作る人間、さらに人間という『種』の、性質が表れている」と考えることができるでしょう。もちろん、作者の意図も、作者の個人的な性質も表れる。ここまでを研究していたのが、テクスト論以前の文学研究の方法論である、作家論、作品論。そして、作者の意図・性質に加えて、作者の無意識が表れる。さらに深く行くと、民族の文化が培った共同幻想、集合的無意識、そして、もっと広く、人間の普遍的な性質。

 文学研究は、人間を研究することだ、と言われる。まさに。ある一つの物語には、それを作った作者の表現したかったものや、その人の好みや性格が表れていて、次いでその人の無意識も滲み出ていて、さらにその民族の集合的無意識の一つの側面、そして人間の構造のある部分が、表出している。だから、文学を研究することで、作者の意図に縛られない、ある物語の可能な新しい読みを研究することで、人間という種の一側面が見えてくる。

 だいたい、ある物語がヒットしたとき、作者や出版社の意図したとおりの読まれ方、見られ方で、意図したとおりの層に刺さることなんてたぶん多くないわけで、つまりは、作者の意図とは違った(でも物語に組み込まれていた)、多くの人々への刺さり方が、多くの人間が持ったある構造と関連していることは明らかでしょう。

 文化人類学は、人間の文化、特に少数民族の文化を研究する。それが、人間の性質を研究することにつながるから。クロード・レヴィ=ストロースは、複数の少数民族の文化に共通する構造を見出すことで、人間に普遍的な性質を見つけようとした。見つけた。

 テクスト論にも、この文化人類学的な意味がある。物語に表れた、様々なレベルの、人間の性質を知る。

「読者の自由な読解」は、それがしっかりと論証できるものなら、荒唐無稽なものではなく、その物語が「そういう読み方ができる物語である」ということを意味する。つまり、そういう構造が、物語の中に潜んでいる。それは、そういう物語を作る、その文化の人間の、人間という種の、性質を反映したものだと考えられる。

 これが、ぼくがテクスト論が好きな理由で、テクスト論の意味だと思う。

 ずっと、テクスト論が好きで、でもそれは「意味を問われた際、誰もが納得できる価値を示せず、その結果文化研究に位置を取って代わられた」もので、社会的な意味を捨てられないぼくはテクスト論を追い求めることにアンビバレントな気持ちを持っていた。

 けれど、その読解が、一つの物語に対する複数の読解が、全て人間の性質を反映しているものだとしたら、テクスト論には意味があると言える。

 これって、小説に対する社会通念、文学を読むことは人を成長させるという考え方から鑑みても、自然なことでしょう。

 だから、ぼくは、テクスト論が好き。

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