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漠然とした憧れは、大事なものだと思っている

 留学に行く際に、何しに行くの、と訊かれて、英語を学びに、と答えるのではだめだ、英語を話せる人なんてごまんといる、留学にまで行って英語しか学ばないのは意味がない、英語で何を学ぶかを考えろ、と、よく言われる。

 ぼくは、それ以前の問題だった。もちろん、英語はしゃべれるようになれば、とは思っていたけれど、それは目的と言えるような動機でもなく、ただ、イギリスに、ヨーロッパに住んでみたかった。それは、漠然とした憧れでしかなかった。

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 少し前、仕事を辞めて大学院に行きたい、という友達と話をした。志望校の話になったとき、どうしてそこに行きたいのか訊いたら、学びたい教授がいる、ということに加えて、彼女は、その学校に憧れがある、と言った。

 きっと、彼女がそこの大学院に行けたら、すごく素敵な感覚を味わうんだろうな、と思った。それこそ、それを目的とするに足るくらいの、感覚。

 就職を、仕事を、何者かになることを目的とすることが正しいと思われがちだ、と思っている。高校までは、いつだって「何かのために」勉強をしていたし、その何かは、きっといい仕事に就くためだった。大学で地球環境系の学部にいたら、環境系の仕事に就きたいの? と訊かれた。仕事に就いたら、「何のために仕事をしてるの?」と訊かれる機会は、ほとんどない。まるで、仕事が、何者かになることが、人生の目的のように。

 でもきっと、その「目的」さえ果たせれば素晴らしい人生、なんてことは、ない。ぼくは、その「目的」とは全く関係のないところで、取り返しのつかない思いを抱えている。

 これまでの人生で、大きく後悔していることがあって、それは、共学の高校に行けなかったことで。

 ぼくは中高一貫男子校に入ったのだけれど、いろんな本や漫画を読んで、そこに描かれるような、部活や恋愛のある高校生活を送りたい、と思った。共学の高校に、憧れた。

 それはもちろん、漠然とした憧れでしかなくて、今この話を誰かにすると、共学の高校生活なんてそんな憧れられるようなものじゃないよ、夢を見すぎだよ、と言われる。でも、それは、当事者にしか語れない言葉であって、ぼくの満たされなかった、そしてこれからも満たされることのない憧れは、ぼくの中でくすぶり続ける。

 高校生活への、漠然とした憧れに従って、転校することが、ぼくにはできなかった。それはきっと、「その後」のことを考えた結果でもあった。「その後」とは、たぶん大学進学のことで、就職のことで。

 きっと、憧れに従って転校していたら、転校初日は、ものすごい緊張と期待で、忘れられない日になっていたんだろう、と思う。

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 漠然とした憧れ、例えば、あの国に、あの場所に住んでみたい、あそこに行ってみたい、何かをしてみたい、ということは、それを目的にすることはよくないことのように語られがちだけど(漠然としている、とか、ただの憧れでしょ、とか、それで何がしたいの、とか、自分に向けられた言葉ではなくても聞き飽きた)、ぼくは漠然とした憧れはすごく大事なものだと思っていて、イギリスに留学していた一年の中で、大きな印象的な画として記憶に残っているのは、30kg以上あるスーツケースを持ってヒースロー空港から乗った電車の窓から見た、ロンドンの街並みで、煉瓦と白壁と背の低い家々を見て、こんな街にこれから住むんだ、と思った高揚感で。漠然とした憧れと、そこに達した、その中にいる感覚は、それ自体を目的とするに足ることだと思っている。

「自分探しの旅」という言葉があるけれど、きっとあれは、目的がなければ何かをしてはいけないという「名前のない顔のないもの」からの圧力で、いたしかたなく「探す」という目的をつけているだけで、本当はただどこかにいきたいだけなんだと思う。

 ぼくは、漠然とした憧れを、すごく大事なものだと思っているし、それは、それ自体が目的にすることに足ることだと思っている。

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