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社会とのつながり方、世界との関わり方の話

 買ったのだけれど読めていない本が、それはもうたくさんあるにもかかわらず、「まずい、本棚から本が溢れていて、新しい本が買えなくなっている、これはよくない」と焦って、本棚を増築した。

 一昨日、ホームセンターに行って、木の板を家の出窓の下の横幅に合わせてカットしてもらい、家に帰ってペンキで焦げ茶色に塗って乾かして、本棚増築が完了したのが昨晩。それはもう充実感があった(焦げ茶色の木の板は、茶色の下に木目が見えていて、初めてこんなことをやったにしてはいい出来だった、と思う)。本が並んでいる本棚も好きだけど、本が並んでない(自分の)本棚は、その空いた空間がこれからの膨大な可能性を抱えた四次元ポケットみたいで、とても好き。

 昨日の午前中は本棚のためのブックエンドを買いに行ったのだけれど、100円ショップへ行く道の途中にある植物屋さんで、新しいエアプランツを二つ買ってしまった。人と会わないゴールデンウィークは、こんなふうに過ごしている。

 植物を育てて、本棚を作って、本を読んで、文章を書いている。最近、山の中の家にこもって、そんな生活をすることに憧れたりもする。

 少し前に、友達に「毎日ただひたすらにおもしろい物語を読みまくって見まくって、本を読み漁って、それについてアウトプットするような生活をしたい」と軽い気持ちで言ったら、「それは飽きるでしょ、最終的な形として、仕事というアウトプットがなければ」と言われた。たぶん、友達が言った「仕事」というのは、社会とつながること、社会において認められること、その手段、という意味だったと思う。

 それから、考えるともなしに考えているのだけれど、お金のことを抜きにしたときに、ぼくは、山の中で、本を読んで植物を育てて、家を改造して文章を書く、そんなふうにして毎日生きていくことはできるんだろうか。

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 仕事、SNS、所属、肩書、社会的に、人に認められる「自分は誰か」ということ。それは、社会とつながることで、ぼくは友達と会うとき、誰かと会うときに、良くも悪くも、それを、意識する。

 そういう社会とのつながりなしで、ぼくは生きていけるのか。

 ぼくは、一人旅が好き(「だった」、という気持ちになってしまうのが、このコロナ禍の悲しいところ)なのだけれど、知らない場所に行って、知らなかったものを見るのと同じくらい、それを文章や写真で伝えることが好きだった。それは、友達が少なかったぼくの、誰かとの関わり方の一つの方法だった。

 ヤマシタトモコさんの漫画『異国日記』の、姪を引き取った小説家・槙生さんは、一人でいるのが好きなのだけれど、目立ちたくないわけではない、という。そうでなければ、小説なんか書かない=自分の妄想を書き連ねて世間に公表したりしない、と。槙生さんのその感覚は、ものすごくよくわかる。

 それは、上で書いた社会とのつながり方とは、少し違っていると思っていて。

 考えてみると、本を読むことも、植物を育てることも、本棚を作ることも、旅をすることも、世界との関わり方だった。「誰」でもないぼくが、直接世界とつながっていた。文章を書くこと(写真を撮ること)は、その世界との関わりを、残しておく、記録しておくためのものでもあって、そしてそれを誰かに伝えて世界と関わるためのものだった。

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 社会とのつながりなしで生きていけるか、という疑問に、当然明確な答えなんてなくて、例えば山奥に引きこもって物語を読むこと、植物を育てること、本棚を作ること、写真を撮ること、文章を書くことが、自分の「誰」につながったり、仕事につながる可能性だってある、けれど、ぼくは、社会とつながる前に、世界と関わっていて、社会とのつながりは、世界との関わりのなかの一つだと考えると、少し、気が楽になりそうな気がした。

読んでいただいてありがとうございます。書いた文章を、好きだと言ってもらえる、価値があると言ってもらえると、とてもうれしい。 スキもサポートも、日々を楽しむ活力にします!