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漠然とした不安を感じたときに、ぼくがしたこと

 芥川龍之介が「時代への漠然たる不安」から命を絶ったのが、90年ほど前のこと。関東大震災から4年後のことだった。

 今へ、今後へのなんとなくの不安。ここが自分の場所じゃないような居心地の悪さ。今がこのまま続いていくことに対するつらさ。誰にも理解してもらえないのだろうけれど、自分の中はそれでいっぱいの、そういう不安は、きっと誰もが抱える普遍的なもの(だからこそ文学や哲学はあるし、「自分探しの旅」というものがある)。

 中二病、黒歴史と言われても、抱えてしまっているものは仕方がないし、やってしまったことも仕方がない。

 高3の春、大学受験が終わった後、ぼくはそういう感情を抱えていた。別に芥川みたいに切実に思い詰めていたわけでもないし、芥川みたいにラディカルなことはしていない。せいぜい、鼻で笑ってくれたら嬉しい。

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 センター試験は、模試や過去問を解いていたときと比べて過去最高の出来で、センターの比率の高い大学が志望校だったぼくは、まあ何とかなるだろう、と思っていた。いつも200点満点中100点ちょっとだった国語(現代文で稼いで、古文・漢文で大量失点をしていた)で、夢の180点を取ったのが大きかった。

 だから合格発表の日は特に何の感慨もなく、曇り空の下、どこか寂しい気持ちで電車を乗り継いで、長い坂を登って、大学に行った。その日はたまたま誕生日で、そのことが、余計に寂しい気持ちを煽った。

 掲示板で番号を確認して、アメフト部につかまって胴上げされて、吹奏楽部につかまって囲まれて音楽を奏でてもらって、それらが恥ずかしくて、空しさを助長した。

 たぶん、ずっと憧れていた「薔薇色の高校生活」が、ついに手に入らずに終わってしまったことが、いちばん大きな理由だったんだと思う。そして、これからに対して全然希望が持てない、漠然とした不安。曇り空がすごく印象的な日だった。

 その日の夜は、母がぼくの好物だった海老フライを、あらんかぎり揚げてくれた。小さくて衣が薄くて身が固い家の海老フライが、ぼくは好きだった。20個(本ではなく、個)は食べたと思う。

 大学生活への楽しみももちろんあったのだけれど、空しくて寂しい気持ちは春休みの間抜けなかった。これからこんな気持ちを抱き続けて生きていくのだろうか、という不安もあった。そういう気持ちを抱えている若者がすることといえば相場は決まっていて、ぼくはその春休み、初めての一人旅に出た。(※笑い起きる)

 青春18切符で、横浜から京都まで。朝7時半ごろの電車に乗って、熱海、豊橋で乗り換えて、名古屋に着いたのが15時ごろ。別の一人旅に出ていた高校の友人とメールで連絡を取り合っていたのを覚えている(彼は四国に行き、最後の清流・四万十川沿いを自転車で走っていた。※笑い起きる)。

 目的地の京都に着いたのは17時ごろで、そこから宇多野ユースホステルまで、バスに乗った。バスに乗るのがほとんど初めてで、目的のバス停を聞き逃していないか不安で仕方がなく、一つ手前で降りてしまった。

 旅の目的地を京都にした理由は、荻原規子さんのファンタジー小説『風神秘抄』の舞台だったからだ。受験期に本屋で見つけて買って、受験が終わってすぐに読み始め、時間をかけて読み終えた、大好きな作品だった。ちょうどその春、NHKのラジオ「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化されていて、すべてMDに録音して、旅に持ってきていた。

 三日間ほど、初めての京都を回った。定番の観光地を回りながら、MDで『風神秘抄』を聞いた。特に、主人公の笛でヒロインが白拍子を舞う場面は、実際の場面だった鴨川の六条河原(六条河原は、「ここが六条河原」と表示されていなかった。ぼくは京都の道が一条から順になっていることを発見して、鴨川と六条通りが交わるところを六条河原と決めた)で、清水の舞台で、金閣寺で、と、何度も繰り返し聞いた。

 ユースホステルでは、同室になったドイツ人親子、日本人のおじさん、20代のお兄さんと話した。高校まで、自分の生活エリアの中の人としか話してこなかったぼくには、すごく新鮮だった。

 ぼくは京都の旅に、自分が得られなかった(と思っていた)「青春」を求めていたんだと思う。行ったことのない場所で経験したことのない青春をしたかったし、旅先でかわいい女の子と出会いたかったし、物語が始まってほしかった。

 ぼくは京都で運命の女の子とは出会えなかったけれど、冒険は始まらなかったけれど、幸いなことに、この旅で、何かしらの物語の始まりを感じられたんだと思う。京都の旅は、間違いなく当時のぼくにとって非日常だった。

 空しさも寂しさも不安も抱えたままだったけれど、それでも楽しいことがあって、物語に近づけた。

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 残念ながら、というか、当然、というか、今も、なんとなくの不安、ここが自分の場所じゃないような居心地の悪さ、今がこのまま続いていくことに対するつらさを、抱えている。もう手に入らないかもしれないものに対する寂しさも。

 そんなもので、それに突き動かされて京都への旅もするし、そういう思いがあるから、京都への旅ができる。

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