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「いつか」なんてこないことを知る年の瀬

 はじめて、人生がずっと続くものではないと実感したのは、「高校生活」に憧れながら、憧れたような具体的なことをただの一つも経験できないまま、高校卒業が迫ってきたときだった。

 部活にかけるような生活もしてみたかったし、放課後や休みの日に友達と遊びに行きたかったし、恋愛もしたかった(以前友人に、中高一貫男子校に通っていたから恋愛ができなかった、と言ったら、男子校のせいにするな、と怒られたけれど)。高2の冬くらいのときに、そういうことを一切していない、物語の中で憧れたような高校生活とかけ離れた時間を送っていることに、焦りを覚えた。このまま、取り返しがつかなくなってしまう、という感覚。その焦燥感を抱えたまま、高校生活は終わった。

 ぼくは、「人生」みたいな大きな括りでは時間を意識できなくて、それを意識できるのは、短い区切りを実感して、その積み重ねとして時間を、終わりを意識したときだ。もちろん、自分の時間が有限でいつか終わりがくることは、理性では分かっていたけれど、実感としてはじめて意識したのは、何もできないまま高校生活が終わってしまうことに強く焦ったあのときだった。

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 年の瀬は、短い区切りを、意識させられる。

 12月26日に引っ越しをした。必要な荷物も全て届いて、ようやく部屋も片付いて、家の周りを散歩しに行ったとき、木と煉瓦とガラス窓の、とても素敵な家があった。

 普段は、なんだか根拠のない楽天的な気分で、そういう家を見ると、いつかは自分にもこんな家に住むときがあるのだろうと感じていた。理性では、考えなくてもぱっと浮かぶ雑多な理由から(こんな家に住むにはいくらかかるんだとか、そのためにはどんな稼ぎ方をしなければいけないんだとか、そもそも別に心の底からそういう家に住みたいとは望んでいないとか)、そんなときはこないだろうと思うのだけれど、とにかく、根拠なく、いつかはそんな日がくるだろうという「感じ」がしていた。

 でも、この年の瀬の散歩で、素敵な家を見かけたとき、そんな日はこないだろう、と思った。

 別に、そういう家に住む日はこなくて構わない。家はきっかけに過ぎなくて、ただ、このままずるずると続く時間の中で、この年の瀬の区切りをいくつもただ積み重ねていって、「いつか」なんてこないまま、人生が終わってしまう感じがして、少し焦ってしまった。特に今年は、文章も全然書いていないし、本も読めていない。ただなんとか日々をこなしただけだったから。

 本当は、こんな風に焦ることなんてなく、飄々として、何も気負わずにその日にしたいことをして過ごしながら、それでいて自分の好きなことを、息を吸うように続けているような人に憧れるけれど、ぼくはそうはいかないみたいで、意識して文章を書いて、本を読んでいかないといけないみたい。

 高校のとき、焦りを抱えたそのまま高校生活を終えてしまったことは、今までずっと尾を引いている。

 普段は、根拠もなく「いつか」がくる、何者かになれると思ったまま、小さな区切りをただ積み重ねていってしまっていることを意識した年の瀬。結局そんな日はこなくて、このまま、ただ焦ったまま好きなこともできずに時間が終わる前に、何かをしなきゃ、と焦って、とりあえず文章を書く年の瀬。

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