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物語が始まる準備はできているけれど

 物語には型があって、シンデレラストーリーはその代表的なもの。どん底から始まって、少し上がって光が見え、困難があって葛藤してまた沈んで、最後に、成功する。

 物語には、苦境や葛藤が必要だ。言い方を変えると、苦境や葛藤から、物語が始まる。

 だとすると、ぼくは、いや、ぼくたちみんな、多くの人は、物語が始まる準備ができている。むしろ、準備万端です、という人が多いと思う。今、悩みを抱えている。困難に直面している。学校が嫌だ。仕事をしたくない。などなど。

 それでも、物語は始まらない。空から女の子は降ってこないし、社長の御曹司に見初められることもない。石油王と出くわさないし、もちろん異世界に召喚されたりもしない。

 もちろん、自分から物語を始めることなんてできやしない(ぼくは男子校の高校生だったころ、女子校の文化祭に行かずに「自然な出会い」を求めていた性質だ)。そうしてぼくらはまた今夜も、スマホのアプリで漫画を読みゲームをして、ギガ数をすり減らす。

 そんなぼくにも、一度、物語が始まりそうだったことがある。シンデレラストーリーだったかは置いておいて。

*     *     *

 社会人になってすぐのころ、最寄り駅の前で、女性にアンケートへの協力をお願いされた。20代くらいの、きれいな女性だった。

 当時はまだ実家暮らしで、住んでいたのは横浜の、住宅街が広がる駅。アンケートを求められることなんてほとんどないようなところで、はじめは、なんだろう、と思った。

 それでもぼくは、にこやかに対応した。ぼくはそのころ(も)、休日に遊ぶような友達があまりおらず、その日も昼から駅前のカフェで本を読んだり文章を書いたりしていた。20代前半の休日、実家の家族以外と喋らず、特に午後は一言も発していなかったぼくは、年齢が近そうな人懐っこい女性が、ぼくの顔を見て、ニコッと笑って、嬉しそうに駆け寄ってくるのを見て、アンケートの内容を聞く前に喜んで協力を申し出た。

 アンケートの内容は、結婚式に関するものだった。結婚する際には指輪を送りたいか。指輪の予算はどの程度か。結婚式は挙げたいか。結婚式の予算はどの程度か。どのような結婚式に興味があるか。

 びっくりするほど興味の湧かないアンケートだったけれど、ぼくは誠実に答えた。隣に彼女がいたから。その子は、渡された用紙に回答を記入しているぼくに、アンケートに関係ないことをいろいろ話しかけてきた。今日は何をやっていたんですか? 本がお好きなんですか? 住んでいるのはこの辺なんですか? お仕事は何をされているんですか?

 その場に何人かいた彼女の同僚らしき人の中で、彼女だけが、ぼくを見て駆け寄ってきた(ように見えた)。そして、アンケートを渡してきながら、アンケートに全く関係のない(ように思える)ことを訊いてくる。これは、ぼくのことを憎からず思っているのでは?

 すっかり嬉しくなったぼくは、だから、「もしよければ、電話番号教えてください」と言って彼女が指さした、アンケートの最後の「連絡先」の項目に、当時持っていた、折り畳み式のガラケーの電話番号を書いた。

「ありがとうございます、また、ご連絡していいですか?」

 と言う彼女ににこやかにうなずいて、ぼくは家に帰った。

 夕食後、果たして、ぼくの紺色のガラケーが鳴った。ぼくはどきどきした。

「もしもし、今日駅前でアンケートさせていただいた、田中(仮名)と申します」

 彼女だった。夜の9時を回ってから、女性と電話をすることなんてほとんどなかったぼくは、胸が高鳴った。田中さん。

 今日はありがとうございました、今大丈夫ですか、など、口上を述べてから、彼女は、一応アンケートの趣旨も軽く説明させてください、と言って、彼女の会社が指輪屋さんや結婚式場と何かしらの関係があるものであることを話してくれた(結婚式に微塵も興味がなく、説明が全くもって理解できなかったけれど、そんなことはぼくと田中さんには関係なかった)。

「そういう、結婚式に関わることをやっているんですけれど、なみきさんは、パートナーとか彼女はいるんですか?」

 ぼくはそのころ、少し前から付き合っている女性がいた(たとえ恋人がいても、それとこれとは話が別である。自分を憎からず思ってくれている(と思っていいかもしれない)人から、夜9時を過ぎてから電話をもらえば、胸は高鳴るものだ)。はい、と答えると、田中さんは言った。

「えー、そっかー、彼女いるんだー、そっかー、残念」

 田中さんが急にタメ口になったことよりも、残念そうな彼女の反応に対して、恋愛経験の乏しい20代前半のぼく(もちろん今も変わらない)は、どう答えていいか分からず、電話口でおずおずとしていた。だって、普通に考えたら、結婚関係の相談って、パートナーとか恋人とかいたほうが客としていいはずでは? それを、彼女がいるのが逆に残念って……。

 彼女は、鹿児島から就職で上京してきて友人がおらず寂しいこと、毎日仕事ばかりしていることを話した。平日は仕事のみ、休日はほぼ読書の生活を送っていたぼくは、同志のような気分になって、電話のこちらで頷きながら聞いていた。田中さんは言った。

「うち、都内で結婚指輪や式について相談できるオフィスやってて、一回、私に会いに、遊びに来ませんか?」

 ……結婚指輪や式についての相談、か。

 悩ましかった。非常に、悩ましかった。遊びにいく時間は、ある。そして、鹿児島から上京して友達がいなくて寂しいから遊びに来て、と言われて会いに行かないのは、それはもうひどく薄情者に思える。もしもこれが映画の試写会だったら、本の見本市だったら、喜び勇んでマイさんに会いに足を運んだと思う。

 でもそれは、そうではなくて、結婚式や指輪に関する相談所だった。ぼくは、結婚指輪や式に、引くほど興味が持てなかった。それはもう、びっくりするほどに。

 ぼくに彼女がいることを残念がってくれて、鹿児島から上京してきて一人寂しくて、きれいで人懐っこい田中さんに、ぼくは、会いに行きたかった。それが、結婚式や指輪に関する相談所でさえなければ。この、鬼のような興味の持てなさ。なぜかは分からない。でも、気持ちが引いてしまっては、仕方がない。

 結局ぼくは、いや、特に相談することもないので、いいです、と答えた。彼女は優しい声で、食い下がった。

「ただ遊びに来るだけで、会いに来てくれるだけでいいんだよ。ね、職場も近いみたいだし、平日の夜でもいいから」

 えー、と答えながら、まだ心の中では二択がせめぎ合っていた。せめてこれが本や映画じゃなくても、ゲームの体験会だったら、それがコンシューマーゲームでも、アーケードでも、ボードゲームでも彼女に会いに行ったのに、と思った。結局僕はまた、ごめんなさい、行かない、と言った。

 何度か押し問答をした後、ぼくが首を縦に振らないことを悟り、彼女は怒った声で言った。

「そうですか、分かりました、お忙しいところお時間をいただきありがとうございました、失礼します」

 田中さん、ごめんなさい、と思った。あなたにはもう一度会いたいし、友達になりたい。でも、でも、内容に興味が持てなさ過ぎた。

*     *     *

 あのとき、彼女に会いに行っていたら、友達になれていたんだろうか。それとも指輪を買うことになっていたんだろうか。彼女の意図は未だに測りかねているけれど、いずれにしても、物語は始まらなかった。またぼくはそれからしばらく、仕事と読書の日々を送った。

 今後またこういう機会があったら、次こそは、何か物語を始めてみようかと思っていたりする。

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