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思いやりの引き算〜それほどのものじゃない〜

ヘッダー写真は、今日夕飯でご飯🍚にかけたえごま。その時、しかと、今のテーマが私の目に飛び込んで来た。

今日、複数人での対話を経て、すごく分かったことがあった。
私はエゴの塊。魂。←漢字が似てるから並べてみたけど、ある意味、魂。魂からエゴだ、私は。

今日の対話で実は一番心に残ったのは、ある人の
「それほどのものじゃない」という言葉だった。
この言葉で恐ろしく気が楽になったような感覚。
試験管の9分目まで溜まっていたおどろおどろしい緑色のドロッとした液体が、スーッと下へ引き込まれて行くようだった。試験管の底が破れてすべてこぼれ出たような。

私たち一人の人間は、それほどのものじゃない。
私は、自分をそれほどのものであると思っていた。と思う。
私は特別な存在だ、と、魂のどこかで思っていた。私は、他のみんなとちょっと違うんだ。一味違うんだ、と。
そうして、私は上から目線で他の人すべてを見ていた。と思う。
この特別感はどうして付いてしまったのだろう?
これも母のせいにしよう。母は、自分を立派で特別に見せていた。母は、仏様のような、普通の人と違うように見えた(今は崩れ去っている)。そんな母の子供だから、何だか自分もそんな気が植え付けられちゃったのかと思う。

私が上から目線を嫌うのは、そのせいだ。自分が上から見たいからだ。
おや?
私のnoteの読者さんは、あれ?この人(私)って、以前「自信が無い」言うてたよね。そこから、自信を持てる自分になったんだよね?
…と思われるだろう。私も思う。というか、知ってる。
その時から薄々気が付いてたけど、
「自信が無い」は、自信過剰の裏返しなんだと思う。自信過剰だから、何かできないことに対して、不甲斐ないことに対して敏感に落ち込む。「自信」が「過剰」という不安定さの中にあることで、敏感になるのだ。って、やべぇ、また繋がった…敏感肌。これは私の代名詞。
「自信が無い」という控え目な顔をしておいて、実は等身大より無理に大きく自分を膨らませて偉そうにしていた。

「自信が無い」の口語訳は、「どうせ私なんて」。私は、生まれた時からずっと「どうせ私なんて」だった。と思う。で、自信過剰の口語訳は、「私は特別」。この二つは、同義だと思う。なんの保証もないけど。根拠は、ただの私の感覚。
「どうせ私なんて」 と「私はそれほどのものじゃない」は、似ているようで、何だか全然違う。後者は、なんて堂々として自然体なんだろう。

私は、思いやりを重んじて生きて来た。だって、そうやって世の中は子供を育てるよね?思いやりを持ちなさい、相手の気持ちを考えなさい、自己犠牲を美しく描くドラマ。私は本当に素直で、道徳的なことはそのまま吸収して来た。今は、道徳なんてクソ喰らえと思っているけど。

思いやりとか、相手を慮るとか、とても大切なことだと思う。
だけど、そこに心を尽くし〈過ぎる〉と、エゴになってしまうのだ。
この人はこうだろう…だからこうしてあげよう…
相手の気持ちなんて、そもそも分かりっこないのだ。どんなに想像したって。それを想像するのは良いけれど、ほぼ決めつけて、それを基にその人の助けになる行動を取ろう…というのは、単なる思い込み。勘違い甚だしいかもしれない。その人にはその人の、尊い、独自の心や感覚があるのだ。それを忘れてはいけない。
その決めつけ、思い込みからのお助けは、自己満足。エゴなのだ。

私は、これにまみれている。
過剰な思いやりというエゴに魂を売ってしまって来た。
自分がどうにかしてあげようなんて、正に上から目線。
良い人そうな顔して。
バカヤロー 

人の気持ちなんて分かりっこない、って知ってたよ。だから気を付けてたよ。でも、たかが上辺の意識を使ったって、魂に染み付いたものは強靭だった。
魂の、教育の、母の、バカヤロー

こういうことを 今 私のあらゆる現実が教えてくれる局面にいるらしい。

みんなそれぞれ、一人一人、ちゃんと生きる力、生き抜く力があるんだよー
バカヤロー

これは、本当は、
私自身がずっと知りたかったことだと思う。
それこそ、生まれた時から。

私はそれほどのものじゃない。
私は私だ。

さあ、また私も、
私の生きる力で生きて行こう。

今日の対話のみなさんとの出合い、すべてのタイミング、環境、巡り合わせに… 
感謝。

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