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「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のヒットと日本人を考える。

「心を燃やせ」

この煉獄杏寿郎の言葉を実際に体現しているサッカー選手がいます。

アーセナル所属のキーラン・ティアニーという選手です。

彼は幼い頃から中村俊輔を目標にしてスコットランド代表まで登りつめた左利きのサイドバックです。

彼のプレーはまさに「熱いエネルギーが燃えたぎっている」かのようで、観ている私は毎回なんとも言えない感動とパワーをもらえます。

ちなみにティアニー選手は常に燃えたぎっているので、真冬や雪の日でも短パン半袖です。

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それに引換え、日本国の首相を観ていると、心が萎えてしまいます。

国会において下を向き原稿をブツブツと答弁している姿では国民に何も伝わらないし、コロナの収束も本気で考えてないようです。

つい愚痴っぽくなってしまいました。。。
本題に移りたいと思います。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」がついに「千と千尋の神隠し」を抜いて日本の映画興行収入第1位になりました。

更に特筆すべきはその速さです。

300億円達成までかかった日数を比較すると「千と千尋」が250日くらいかかっていたのに対して、「鬼滅」はわずか60日ほどです。

このヒット現象はコロナ渦における日本人の心のありようが関係しているのではないかと感じました。

コロナ渦における変化はリモートワークなどの働き方だけではなく、自分自身の生き方や自らの幸せの価値観を多くの人が内向し考えて、日本人も何かしらの変化を及ぼしたのではないでしょうか?

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」では炎の柱である煉獄杏寿郎の言動や生きざまに老若男女を問わず惹きつけられたようでした。

以下に煉獄さんとそのお母さんの言葉を集めてみました。

■そんなことで俺の情熱は無くならない! 心の炎が消えることはない! 俺は決して挫けない!(煉獄杏寿郎)

■どんな道を歩んでもお前は立派な人間になる! 燃えるような情熱を胸に頑張ろう! 頑張って生きて行こう! 寂しくとも!(煉獄杏寿郎)

■老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ。(煉獄杏寿郎)

■俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!
(煉獄杏寿郎)

■弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように。(煉獄瑠火)

■胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を喰いしばって前を向け。(煉獄杏寿郎)

■俺は信じる。君たちを信じる。(煉獄杏寿郎)


私は劇中に人々の心を動かしていた煉獄杏寿郎の言動のそのすべてが現代社会に失われたものそのものではないかと感じました。

「自己犠牲」「利他の精神」このようなワードを思い描きながら映画を観ていました。

現代の社会システムでは上記に挙げたようなものを持って生きていくことが困難な時代になったような気がします。

そんな中、日本では「合理性を重視し、損得で行動する。」ような人間が増えていったような気がします。

だからこそ煉獄杏寿郎の生き様に人々には眩しく見え、また後ろめたい気持ちにさせられることが、この映画の大きなヒットを生み出したともいえるのではないでしょうか?

ここではなぜ「合理性を重視し、損得で行動する。」ような人間でないと生きていけない日本社会になってしまったのか考えてみたいと思います。


まず「鬼滅の刃」の竈門炭治郎のセリフがあります。

『俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった』

これは戦前の民法では戸主の長男として生まれた時点で、法定家督相続人として家族全員を扶養する義務があり、また家を維持・存続させる義務が生じていました。

長男は非常に重いプレッシャーの中で生きていかなければならないことを竈門炭治郎のセリフはあらわしています。
(*ちなみに社会通念として家督は長男が継ぐものとされていたものの、特に長男でなければならないという決まりはありませんでした。)

また、戦前までは「家族」は戸籍ごとに「家」として明確化され同じ名字を名乗る一族として定められ、人数の制限もありませんでした。

よって自分の伯父さんが家長としている場合もあり、現代の家族より広い範囲での家族構成でありました。

そのため家族が相互扶助の役割を持っていいて、戦時中において国家の社会保障が貧弱となっても、「家」が人間を守る最後のセーフティネットとしての役割をしていました。

昔の「家」制度は非常に重く辛い部分もありましたが、家族の危機に際しては自己を犠牲にしても助けるという精神があったことは事実であります。

現在のように何でもかんでも自己責任となってしまう社会ではなく、家族という逃げ場所があったことは社会システムとしては良い部分でもありました。

しかし、敗戦後にGHQの指導のもと民法が改正となり、戦前の「家」制度はなくなりました。

戦後の人々は田舎から東京や大阪などの大都市に仕事を求めでてきて、職場などの女性と結婚し、団地に住み、子を産みました。

これが戦後の「家」のありようです。

戦前の「家」と比べると非常に薄っぺらでインスタントな家庭の集まりが戦後の高度経済成長を支えてきました。

戦前の重苦しく重厚な伝統を引き継ぐ旧民法的「家」がなくなり、女性は自由を手に入れ、男も重いプレッシャーから解放されました。

それと同時にセーフティーネットとしての家族という強い絆で結ばれた共同体もなくなってしまったのです。

「家」のかわりに人々が頼りにしたのが「会社」という幻想共同体でした。

「会社」は戦後の荒廃から立ち直ってゆく過程で、雇用を創出し、産業を発展させ、都市化の促進をすることで、日本人の多くが中流意識を持つことを可能にしました。

戦前の権威主義的な家族の解体の代償のように、団塊の世代の人たちは「企業戦士」と呼ばれ軍隊型の縦社会の組織でよく働きました。

会社にいけば自分の居場所があり、自分を理解してくれる仲間がいて、情熱を注ぎこめる仕事がある、というある種の「家」のようなものでした。

そしてか「会社」も社員を家族同様に遇し、年功序列、終身雇用というシステムを採用してくれました。

団塊の世代の人々は会社を信じてコツコツと努力していれば、必ず会社は報いてくれるという暗黙の了解の中の強い信仰みたいなものがあったのでしょう。

定年後も「元〇〇商事営業部長の田中です。」と自己紹介するようなジョークが語られます。

それは団塊の世代に漂う現実の空気感であり、彼らにとって会社とは自らの人生を捧げても惜しくはない運命共同体としてのまさに「家」に対する忠誠と信仰と同じものでした。

護送船団方式、親方日の丸、終身雇用、年功序列、メインバンクシステム、下請けシステムという日本的経営方式が機能し、1980年代前半までは、国際的な競争力の原動力となっていました。

ところが、その幻想共同体を支えていた日本的経営システムそのものがあっけなく崩壊してしまいます。

90年代に入って、アジア通貨危機がおこり、日本でもバブル崩壊の中で山一証券の倒産、潰れることがないと言われてきた大手銀行があいついで倒産しました。

このような金融不安の中で当時の橋本内閣は「フリー、フェア、グローバル」という、日本版の金融ビッグバンとして改革することになりました。

そして、日本的経営システムは完全に崩壊し、「会社」信仰も覆されたのです。

そして失われた30年という日本の経済は低迷したまま現在にいたります。

我々日本人は「家」という共同体も破壊され、「会社」という幻想共同体も無くなってしまいました。

そして、日本の国自体も国営の民営化や独立行政法人の設立などインフラや教育といったものまで株式会社化していきました。

現在のコロナ渦の中、貧窮した国民に給付金を出さない政府および菅総理や麻生大臣など政治家を見ても、国家が国民を守るという当たり前のことができていないのが、この日本国の実情です。

我々日本人にはキリスト教やイスラム教などの絶対的な宗教を持ちません。

神にも国家にも頼れない我々日本人は必然的に自己中心的な個人主義にシフトするしかなく、同調圧力は強いが何でも自己責任にされてしまう世知辛くも寂しい社会となってしまったように思われます。

そして、グローバル新自由主義という名の下に株式会社という病が我々日本人に浸透し、「合理性を重視し、損得で行動する。」人間ばかりの社会となってしまいました。

その株式会社の正体を紐解いていきたいと思います。

まずは、こんな問いから始めたいと思います。

お金が大好きで、お金を儲けることしか興味がなく、無駄な出費は一切しない。
利益にならない友達とは付き合わず、責任は極力他人に押し付ける。
人には厳しく、相手を押しのけても自己主張する。

こんな人間があなたの周囲にいたらどうするでしょう?

私なら当然ながらなるべく離れて、被害を被らないようにします。

この最悪な人間の正体は、法人という法律上の人格を持った株式会社そのものです。
この病的というほどの金銭フェチと私たちは日々接していて、毎日通っている株式会社そのものです。

私の営業マン時代の仕事の仕方もこのような病的な人格を彷彿させる手法をとっていたように思います。

ちょっとした隙間があれば入り込み、金儲けのチャンスを広げ、自社のリスクに対しては二重三重の対策を講じる用心深さをもち、他者をよせつけないような自信に満ち溢れたプレゼンテーションを演出していました。

しかし、このような仕事をしなければ生き抜いていけなかったのも事実です。

では、これとは正反対の性格を想像してみてください。

お金に執着せず、困っている人がいれば無駄だと思っても相談に乗ってあげ、貧窮している人があれば、迷わず救いの手を差し伸べる。
他人の責任を自分の責任のように背負い、人には優しく、いつも控え目でありのままの現実を受け入れる。

なんだか素晴らしい人です。

しかし、これが会社だったとして、この会社に投資しようと思う投資家がいるでしょうか?

慈善家かよっぽどの酔狂でない限り、このような会社では回収の見込みなどないと誰もが思うことでしょう。

株式会社とは社会のメンバーとしては強欲で横暴であると思える行為を合法化して成し遂げるものだということです。

しかし、我々日本人は「家」を失い、「会社」も頼れず、国にも見放されいる状況です。

いったいどのような共同体に頼っていけば良いのかわかりません。
そのような共同体を作ってこれなかったことでさえ自己責任にされる世の中です。

やはり一人一人が株式会社のように常に合理的に損得勘定で生きていく方法しかできない社会になっているような気がします。

煉獄杏寿郎は自身の死を目前にしても剣術士として永遠に生きることを選ばず、後輩を守り抜くという自分の使命を全うします。

つまり、自分のために強くなったわけではないのです。

炭次郎も、妹を人に戻すために強くなるという一点について、僅かな曇もありませんでした。

損得勘定で生きる我々とは正反対の真っ直ぐな煉獄杏寿郎や澄んだ心の炭次郎に人は感動します。

そして、たとえ戦いで自分の命を落としたとしても、その想いは次の世代へ継承され、後輩たちが先輩たちの夢を実現させます。

現代の私たちに、そんな使命に対する美学はあったでしょうか。

日本の古来の武士階級や軍人は本来こういう生き方をしていたはずです。

その日本が誇る「武士道」は、一部の侍階級の美的精神であり、一般大衆には残念ながら受け継がれませんでした。

世界に目を向けると、インド独立の父ガンジーや黒人の人権問題ルーサーキング牧師、そして今も香港の民主化活動でも諦めずに闘い抜いている才覚がある人がいました。

その才覚を自分の利益のために活かそうと思えばできたであろうにそうはしませんでした。

正しいことであれば、どんなに壁が高くとも誰に何と言われようとも、やり抜き、修行し続け、打ちひしがれても、想いを伝え続けます。

そうやって仲間を増やし世代を超えて一つの大きな成果となった事実が歴史にはいくつもあります。

私は株式会社の人格のような損得勘定で生きていくことの限界がきていると思います。

それは資本主義の終焉かもしれないし、日本人の価値観のパラダイムシフトが起こることかもしれません。

そのような期待感がこのコロナ渦においてこの「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」がヒットした要因であることと信じたいです。

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