美術は生命の成長過程に必然と組み込まれている
Aさんからお借りしたブルーピリオドをところどころ涙を流しながら読んでいるこの頃。台詞回しが大変リアルで、当時の私や今の私とリンクして、自分でも知らない間につつと涙が流れてしまう。マンガを読むこと自体おそらく10数年振りの疎い私がどっぷりはまってしまった。それに、なんとなくこの夏は10代の頃の自分に触れるような体験が幾度かあって、原点回帰じゃないけど心深くへ手を伸ばしてみようかなという気持ちになり、手元にあるざらばん紙へただ手を動かすことだけに集中し私は描き始めた。
一枚二枚と枚数が進むにつれ、幼いわたしが今の私へ語りかけるよう。
描くことで過去と対話ができた気がした。
途中幾度となく急に我に返って、今描いているこの行為自体に疑問を持つこともあったし、また描かれた絵に対して自分で優劣をつけて無かったことにすることもあった。その度に無意識に判断している自分に気付き私の外形が見える感触がある。その、ジャッジの多いこと…。油断しているとすぐ批判や判断をしはじめ、過去のわたしが消えた。
その度にいったん手を止めて思考が落ち着くまで待って、再び描き出す…の繰り返しだった。
少し話がそれるが、小さなこどもは時期が来れば自然と絵を描き出す。たまたま手に当たってこぼれたミルクだったり、手づかみして汚れた手の痕跡だったり。いわゆる画材ではなく、またいわゆる絵でもないもの。たまたま誘発的に現れた残像を目で追い、あれ?なんだこれ?とそれを見つめる。そして同じことをまたやってみる。これがこどもの絵のスタートだという学者もいて、私はそれを信頼している。最初は”?”や”!”といった言語化できない体験があり、その再現をなぞる行為が絵を描くことの始まりなのだと。
それは大きくざっくりとした目で見ると、周りからの注目をもらわないと生き延びられない受け身の赤ちゃんの状態から、自分の好奇心から自発的に行動するといった自立の一歩。たびたび幼児教育に美術が必要か不必要かと問われることがあるが、私は、生命の成長過程に必然と組み込まれているものではないかと考えている。それを維持するか阻止するかは、以降の周りの環境に左右されるのだろうけれど。
今回私がおこなったこの描画も、この頃のような私の初動に触れることができたらいいなと思って始めた、と言語化できるかもしれない。受験絵画を経て挫折を繰り返している私の半世で、凝り固まったジャッジの岩。描くたびにその岩に触れて気づいて触れて気づいて。この描写を繰り返すたびにだんだん響いてくるのは”もっと絵を描きたかった”、”もっと無邪気に描きたかった”という気持ちだった。これは本当に幼いわたしが言っているのか、今の心の反映なのか、どうかは分からない。ただ響いてくるこの気持ちを掬いあげ、そうかそうかと思うほかなかった。私は、普段作品を制作するときに極力排除している自分の感情というものを、このように絵に表すこと自体抵抗がある。それを作品として発表することに対しては今でも確固たるボーダーラインがある。ただ私が開いているこのggというスタジオでアートに触れる方へ対して言えることは、価値を自分に引き寄せ、社会的判断を手放すことができれば、絵を描くこと、美術を学ぶことは、今日の多次元を生きるツールとしてとても面白いものだということ。自分にとって価値のあることをただひたすらやり続けて自分の人生を彩ることで、それ自体がいずれ価値化していくと私は思っている。
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