私たちが考える普通ってなんだ?#多様性論
私は、書いているテーマのために、常日頃、人間の多様性「私たちが考える普通ってなんだ?」と考えたりします。
一つは、日本はグローバリズム競争を勝ち取るためのツール、ダイバーシティ経営もそうですが、「多様性」を標語のように掲げているわけです。本当の多様性ってなんでしょうか。
二つは、アイデンティティ、人種や文化、LGBTや社会階層など、「属性の多様性」に目がいきがちになります。個人が尊重されること、これも多様性です。
これらは、もう知られていることで、日本も「個」を尊重する方向にも向かっています。それは 少なからず、私のタイムラインにもそのような記事が流れてくるのです。
本当の「多様性」ってなんだろうか。「他国・他人に身を置く」ことです。例えば、「他人の靴を自分が履く」という例え。自分自身や自国の文化を相対化する環境に身を置く、ということです。
知られているようで、知らないことかなぁとも思いまして。
もう、当たり前になっているかな?
では、精神障害者は弱者でしょうか。弱者救済と考える限り、「多様性」は理解されていないでしょう。
なら、ハンデは? ハンデ=弱者でなく、その人の持った特性です。ハンディーキャップはいかようにも「活用」できるものとなり得るのです。
それから、これはちょっと話が逸れて、昔の乙武さんの話「『叩いてはいけない弱者だった障害者が、フルスイングで叩かれるようになったのは乙武さんの功績だ」とあって、これは芥川賞作家村田沙耶香さんの言葉だそうです。これは古いかな??
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