見出し画像

山登り【小説】

【父編】
よく晴れた日は家族で登山に行くと決めてるんだ。耳の聞こえない妻と、中学生になったばかりの長女と小学三年生の長男を連れて、車で行ける範囲の山に行くんだ。僕は1人でも登山に行くけど、そういう時は遠出して1500メートル超の山を登る。家族で行く時は、そんなに高い山は登れない。500メートルがせいぜいだろうね。それだって登れない時もある。
この前の祝日に揖池山に行った時も、あそこは650メートルくらいしかないけれど、頂上まで登ったのは僕だけだった。登山道が幾つかあるけど、できるだけ簡単な所を行ったんだけどね。麓の駐車場に車を停めて、登山道の入口までの砂利道が行きは本当に遠く感じるんだ。登山道に入ると、本当によく整備されていて歩きやすかった。雨が降った後でも、あの登山道なら登れるかもしれないと思ったよ。半分くらいの所までみんなで登ったんだけど、長男は休み休み来るから時間が無くなってしまうんだよね。それで、いつもそうなるんだけど、途中から点々バラバラと登り始めるんだ。僕はやっぱり頂上まで行きたくてね、休憩するところが4箇所くらいあるんだけど、全部足を止めずに通り過ぎるんだ。
途中から生えてる植物がシダ植物ばかりになって、いよいよ頂上が近くなってきたなと思うんだよね。でも、やっぱりここからが長い。登山はあと少しだなって思ったら、そこからめちゃくちゃ長いんだよね。だから、まだまだって思わないといけないんだけど、そう簡単にはならない。植物が変わったり、土の感じが変わったり、道が狭くなったり、とにかく何か感じるんだよね。大きな山になったら尚更そうだけど、山自体がそうさせてくるんだよね。だから、登山は精神が鍛えられるみたいなところがあるんだよ。
それで、その日は頂上付近から絶景を見るために登ったんだけど、それはそれは完璧だったよ。360度見渡せるんだ。僕の家も見えるし、会社も見えたよ。もちろん登山口も見えたんだけど、結局それがいいんだよね。自分が歩いてきた道を、登って来た道を、その距離とか高さとかをまざまざと感じることが出来るからね。あそこら辺で「もう少しだ!」って思っちゃったなぁとか、あそこの木は頂上からも見えるのかぁとか、振り返りみたいなことが出来るんだよね。高い所に登った人間にしか見えない景色があるんだよね。
人生もそういう所あるだろ。頑張った人間にしか見えない景色があって、だからそれを目指して頑張れるみたいな所がさ。雪山とか登った日には特にそう思うよね。頂上は吹雪だったりして下の方は見えないんだけど、高い所に登った人にしか見えない景色があるんだよ。
その夜さ、妻がご飯作ってくれてみんなで喋りながら食べたんだけど、その話をしたんだよ。誰も頂上まで行っていないから分からないだろうけど、登山は頂上まで登って初めて意味があるんだからねって。末の子だけ、ニコニコ笑ってたよ。まぁ、やっぱり見ないと分からないのかもね。そこまで行かないと分からないって言うのも、それはそれでロマンがあるよね。ま、でもこの歳になって、娘は反抗期が始まってるのに家族で登山ができるのは、誰にだってできることではないよね。友達はお小遣いねだって、化粧して街に出て夜ご飯も友達と食べてきたりするのに、うちの娘は楽しそうに弟と前日から登山の準備してるからね。別に大して何も持っていくものないだろうに、朝も3回も4回も水筒持ったかとか、帽子持ったかとか、はしゃいでるんだからね。それ見るだけでも笑えてくるよね。
それでいて途中ですぐ登るのやめちゃって、僕が下山する時に途中で拾って帰るんだよね。子供って分からないよね。妻もさ、子供たちと最後まで登るのかと思ったらそうでもなくて、途中まで僕と登るけど、子供たち待つねとか言って、本当は彼女が疲れてるだけなんだろうけどね。満足そうにいつも下山してくる僕を途中で待ってるよ。毎回、頂上はどうだったかって聞いてくるんだけど、毎回同じことしか返さないんだ。頂上から君に手を振ったよってね。全然見えてなくても、そう言うことになってるんだ。
登山するといいよ。余るほど山はあるからね。何も大したもの準備しなくても低めの山なら楽しめるよ。でも、登るなら頂上まで行きな。登山はやっぱりそうじゃないとだから。

【母編】
主人は山が好きで、休みの日になると山登りに連れ出してくれるんです。いつも山登りのことばかり考えているようで、次の休みはこの山に行こうって言ってくれるんです。私や子供たちが一緒に頂上まで行けるようにって言うんですけど、私も子供たちは頂上まで行くことを楽しみにしているわけではなくて、主人の目標はなかなか達成できないんです。
私は耳が聞こえないので、主人が隣でどんな鳥が鳴いているかとか、水の音が聞こえるとか言ってくれないと音のことは分からないんです。でも、もちろん風は感じるし、動植物や川の気配も感じます。主人は私のリュックに鈴を付けて、それが熊よけになると言うんですけど、熊が来たら気配で分かると思うんですけどね。山はいつも騒がしくなく、何か特別でないものをふと与えてくれるから、私も登山は好きなんです。娘達はいつも途中で登るペースが遅くなってしまうので、結局一緒に行っているのか行っていないのか分からなくなります。けれど、同じ山にいるのだから大丈夫だと思うことにしています。彼女たちには彼女たちの時間があるでしょうから、あまり干渉しないことにしてるんです。
先日行った揖池山という山でも途中からバラバラになってしまって、私は八割くらいまでは多分登ったんですけど、そこにあったベンチに座った途端、もう登る気力が無くなってしまって、主人には先に行ってもらったんです。主人はいつも頂上まで登るために登山していますからね。主人が先に行ってから、しばらくして近くの茂みが揺れ始めたんです。少し怖かったですが黙って見ていたんです。メスの鹿が現れて、キョロキョロとしていたんです。それから少し遅れてオスの鹿が現れたんです。でも、オスもキョロキョロしていて、目線の先の方で、別のオスが茂みから出てきたんです。もう、それだけで私にとってはカオスで、でもそこからどうなるのかが気になって見ていたんです。オス同士は、初めは少し遠目からお互いに唸り合っていたんですけど、そこから距離を縮めて、終いには角を突合せたんです。私は当然最初にメスの近くにいたオスを少し応援しましたけど、すぐに決着はついて後から来たオスは負けてしまいました。決着の付き方も何とも微妙な感じで、去っていくオスはもっと微妙な表情をしていました。少し可哀想でした。でも、とにかく私の前で、勝ったオスとメスが少し葉を食べて、それから何事もなかったように去っていったんです。
主人には申し訳ないけれど、私はそこにいて良かったと思いました。頂上まで行かずに止まっていないと見られなかったでしょうから。
それからそこで風にあたり汗が乾いてからもしばらく座っていると、主人が降りてきて一緒に下山しました。主人はいつも頂上から見てたよって言うんですけど、それはだいたい嘘なんです。でも、決まり事だからそれでいいんですけどね。
家に帰ってから、手巻き寿司にしました。末の子が好きでね。手巻き寿司にしちゃうと私はあんまり話せなくなるんですけどね。主人がいつものように「登山は頂上まで行かないといけない」とか「高い所に登った人間にしか見えない景色がある」とか言っていたみたいでね。末の子は笑ってました。良いんですよ、高い所に行かないからこそ、その世界に夢を見ることだってできるし、主人が見られなかった景色を私が見られたように、子供たちも何か見たでしょうからね。頂上付近にゴミが落ちてる山もたくさんあるんです。頂上に行くことを夢見ている時は、美しい景色や大きな達成感を夢見ているんですけど、本当はいつもそんな素晴らしいものばかりではないです。夢を見ている時の方が良いとも言えると私は思いますね。特に子供のうちは、知らぬが仏というものです。
夕食が終わったあと、子供たちが水筒を出してきて、それを洗ったんです。朝から入れた水はすっかり無くなっているだろうなって思ったんですけど、末の子はほとんど飲んでいなかったみたいで、冷たい水が入ったままでした。あんなに登るのに苦労してるようだったのに飲まなかったんですね。何かそれ以上に興味を引くものがあったんでしょうけど、娘がそれを聞いていたみたいなので、私は聞きませんでした。娘の水筒は空でしたけど、下山した時も家に戻ってからご飯の手伝いをしてくれてる時も、トイレにも行かないでいました。若いっていうのは良いですね。
娘は反抗期ですけど、よく弟の面倒を見て、家事も手伝ってくれて、よくできた子です。今の子は街に出て遊ぶのだと聞くものですから、時々それとなく遊びに行っても良いんだよって言うんですけどね、頑なに行かないんです。手話の勉強ばかりして、私のためにやってるわけじゃないって言うんですけど、もうどこまでが反抗期なのか分からないですね。まぁでも素敵な家族に囲まれていますよね。

【娘&息子編】
「姉ちゃん、この前の山の名前なに?」
「うーん、忘れた。なんか難しい漢字だったから」
「俺も覚えてない」
「俺って言ったらお母さんに怒られるよ」
「良いの。学校では言ってるもん」
「怒られても知らんよ。それでなんで山の名前を知りたいの?」
「学校の宿題に書くの」
「あぁ、絵日記の宿題とかあったね」
「お父さんに聞いたら分かるけど、今日も帰ってくるの遅いだろうね」
「母さんは分かるかな」
「分かるんじゃない?知らんけど」
「後で聞いてみよ」
「日記は書いたの?」
「うん、書いた」
「見せてよ」
『この前は○○っていう山に行った。ぼくは途中でつかれたので、大きな岩のところで座っていた。そしたら、いっぱいアリが歩いてきてぼくの前を通って行った。たぶん100匹くらいはいた。運動会の時みたいにみんなで並んで歩いていて、巣のひっこしをしていたと思う。みんな白い幼虫を口で運んでいて力持ちだと思った。とても楽しかった。』
「風(ふう)、半分くらいしか書いてないじゃん」
「そうだよ。もう書くことないもん」
「そんなことないでしょ。黒田先生に八割くらいは書けって言われるよ。お母さんの手巻き寿司のこと書いたらいいじゃん」
「うーん、あとで書く」
「あと、アリって巣の中に100匹しか居ないことないでしょ。もっといるでしょ」
「数えてたけど分かんなくなったの!母さんがアリの本、図書館に返しちゃったから調べられないし」
「それ何分くらい見てたの?」
「うーん、分かんない。姉ちゃんが先に行ってから30分くらいかな」
「そんなに見てたの?」
「うーん、もっと短かったかも。わかんないよ。色々見てたもん」
「絶対100匹とかじゃないね。もっと多いよ。それでほかは何見たの」
「うーん、なんかタケノコみたいな形のキノコとか、アオカナブンの羽が落ちてた。あ、あと鹿の角もあったけど、遠すぎて拾えなかった」
「なんだ、書くこといっぱいあるじゃん」
「だって絵に書いてないもん!」
「良いんだよ書かなくて。しかも、この端っこの方とかに書けばいいんじゃん。太陽とか見える道じゃなかったでしょ!太陽とか描かなくていいから」
「だってみんな太陽書くじゃん」
「そういう絵が多いからみんな書くだけ。書く必要ないし、見えてないなら尚更だよ」
「じゃあ、色鉛筆貸して。青いヤツの芯折れたから」
「色鉛筆ないから鉛筆削り貸してあげる」

「風、手巻き寿司のこと書くとこなくなっちゃったね」
「うん、いいの!宿題終わり」
「風ってさ、山登り行っても庭にいてもいつも足元ばっかり見て、虫とかばっかり探してるよね」
「だってそれしか見えないもん」
「私も前はそうだったよ。お父さんが頂上までおんぶして連れてってくれたことあるけど、お父さんの肩から降りたらあんまり何も見えなくて、山の途中の所の方が色々景色とか花とか色々見えるんだと思った。ま、その時はまだ小さかったからかもだけど」
「ふーん、山の虫は違うんだよ。公園とかでアオカナブンの羽なんて見たことないもん。だから山に行ったら山の虫を見るの。アリの引越しだって初めて見たよ」
「確かにね。お父さんは見たことないかもね。いっつも前ばっかり見て登ってるもんね」
「でも、高いところに行かないと見えない景色があるんでしょ!」
「お父さんいつもそれ言ってるよね。でも、風とか私が見たものをお父さんは見てないと思うんだよね」
「姉ちゃんは何見たのさ」
「お姉ちゃんは登山道から少し外れたところにあった少し出っ張ってる岩に座って景色を見てた」
「何が見えたの?」
「反対側の山と、私たちの家もたぶん見えてたかな」
「家も見えたの?!」
「うん、たぶんね。青い屋根が見えたからたぶんそう」
「そこにずっといたの?」
「うーん、最後の方は、そこら辺にあった黄色い花に水やりしてからお父さんと合流した」
「水やりしたの?」
「うん、水要らなかったからさ、重かったし、その花はめっちゃ綺麗な黄色だったから」
「じゃ、姉ちゃんが見たものも母さんも父さんも俺も見てないね」
「うん、そういうこと」

「風は手巻き寿司やってた時、なんで笑ってたの?」
「父さんが喋ってて母さんが隣で手巻き寿司握ってるのが面白かったから」
「意味わからんない。何が面白いの」
「面白いじゃん。母さん聞く気もなさそうだったよ」
「いつも同じこと言ってるからでしょ」
「いや違うね。母さんが手巻き寿司にする日は、疲れてて喋りたくない日なんだよ。 それなのに父さんはそれ知らないからめっちゃ喋ってたんだよ」
「違います。お母さんが手巻き寿司にするのは、風が手巻き寿司好きだから。あと、私が手伝えるから。それと手巻き寿司なら、みんなが手話しなくても良い言い訳ができて、よく食べてすぐ寝るから」
「母さんがそう言ってたの?」
「いや、そうじゃないけど、私はそう思う」
「どうだろうねぇ」
「聞いたら、お母さんに。それよりさ、明日日直なんだよね、最悪だよ」
「良いじゃん日直!」
「風はね!私は嫌だ。しかも、黒板に一日のめあて考えて書かないといけないの!面倒臭くない?」
「高い所に登った人間にしか見えない景色がある!にしたらいいよ」
「なんでそれなの。みんなに笑われるよ」
「良いじゃん、カッコイイじゃん」
「カッコイイの?しかも一日のめあてになってないし」
「なんでも良いんだよ」
下の階から鍋の叩く音が聞こえた。
「おやつだ!ケーキだ」
「俺が先に行く!!」
風はお姉ちゃんを制して、ドタドタと階段を降りて行った。
「そんなに急がないでもケーキは逃げないって」
「先に行った方が先に選べるもん」
「そのルール、風しか使ってないから、無効だよー」
「母さんにお願いするもーん」
「じゃあ、風が俺って言うの辞めないってお母さんに言っちゃおー」
「ダメ!!じゃあ姉ちゃんが水飲まなかったの言うもーん」
「それは別に悪いことじゃないでしょー」

【背景談】
高校3年の夏が始まる頃、学年集会があった。私の通う高校は進学校だったため、半年後に控えた大学受験というビッグイベントに向けて「勝負の夏」だと生徒たちにプレッシャーをかけていた。学年集会では、いつも通り学年主任の黒田先生が前に立ち、低く明瞭な声で話し始めた。彼は登山が好きだと言いながら、話の終盤で「高い所に登った人間にしか見えない景色がある」とまとめた。12月の学年集会で「あの時は少し格好つけてしまった……」と弁解していたがその時の内容は詳しく覚えていない。彼が夏目前の学年集会で受験生の勉強を後押しするために使った表現として、その言葉は分かりやすく、的確で、かつ心に残るものだったため、流石は国語の先生だと思った。
思い出してみると同じようなことを言われた経験がある人はたくさんいるだろう。私も何度も聞いてきた。人生や仕事、成功というものを語るときに、とにかく上を目指すことが正義だと、それこそが進むべき道だと言われるばかりの社会になっている。しかし、本当にそうなのかと思うわけだ。上とは何なんのか。成功とはお金を稼ぎ、名を上げ、力を持ち、週刊誌に追い掛けられ、SNSで誹謗中傷を受け、メディアの前で猫を被ることなのか。
社会における「高い所」とはそういう場所に思われて仕方ない。しかし、そうではない所にこそ人はたくさんいるわけで、正に山と同じピラミッド型で「低い所」にこそ人はいる。一般の人のことであるが、敢えて失礼を承知で「低い所」の人と呼ぶが気を悪くしないで欲しい。要は、特に稼ぎは多くなく、特に有名でもなく、特に大した力も持たないわたしのような人々だ。そして、彼らこそが社会を作る大部分であり社会を支える大部分でもある。
少し考えてみると、高い所にいる人たちが低い所にいる人たちの景色を見えているのであれば、毎日のように低い所の人たちの泣きそうな声が聞こえてくるような現在の社会は存在しないはずだと気がつくだろう。つまり、高い所にいる人が低い所にいる人の景色を見えていないのは明らかであり、高い所にいる人にしか見えない景色はあっても、同じように低い所にいる人にしか見えない景色もあると断言できる。
もう一つ別の考えがある。社会というテーマではなく、アイデアという分野のことだ。整備された登山道を歩くことは確実に着々と流行の最先端に近づくことを保証してくれるだろうが、そうではない道もきっとあるだろう。人が寄り付かない範囲に足を踏み入れ、真新しかったり独特だったりする分野を切り開くことは、最先端だけを見ている人にとっては見えない世界である。新しいから良いというものでは無いし、道無き道は死者を増やすが、そこに向かう人が時として真の開拓者になることも、そのような人々が世界を変えてきたことも誰も否定できない。

小説の中で、ハングリーでストイックな父はあくまでも頂上を目指しているが、頂上からの360度のパノラマなど、彼は確かに高い所にいる人にしか見られない景色を見ている。しかし、他の3人が見たものを彼は見ていない。耳が聞こえない母は、物静かで落ち着いた人だからこそ鹿の闘争という稀な出来事を目にした。好奇心旺盛で優しい娘は、人が立ち入らないような道にある岩で絶景と美しい花を見ている。そして、彼女は弟の話に耳を傾け、彼が見た景色のことも少しだけ取り入れた。昆虫好きで没頭タイプの息子は背の低さと観察力のお陰で、誰よりも深く1つのことに集中してその時間を過ごした。何であっても良いわけで、結局は自分の景色しか見ていないため同じようなことだ。けれど、重要なのは自分が見ていない景色の存在があるということに気が付けているかということであろう。往々にして、高い所に行った人ほど自分の見えていない景色を認められなくなる気がする。一度、山を降りて、登ってきた道が自分が登った時と同じものなのか、今はどんな状況なのか、見落としているものはないかを調べることが本当に知るということであり、そこで初めて低い所の景色を見たことになるだろうが、それをやる勇気はなかなかないらしい。頂上手前の最終版の辛さを知っているからだろうか。
結局のところ、彼らがしがみつくものが、お金と力と名声に見える。一度持ってしまったら手放すことに相当な勇気がいるそういうものが、成功者の証となってしまっているのは良くないだろう。一度持ってしまったら、そうでない人々の見る景色を見えずに生きることになるのか、悪い場合は否定して生きることになるのか。そう考えると、そんなもの一生持たずに生きたいと思ってしまうのは私だけだろうか。頂上の景色を見ずに、ただ夢として持っているだけにしたいと思うのは私だけだろうか。そんなものより、小説の中の家族のように優しさで包まれた場所があれば充分だと思うのは私だけだろうか。本当はそういう人間の方が大多数であると、頂上に立った人間こそ知らなければいけない。決して教育チックに人前で語るようなことばかりせずに。
中学生、高校生、大学生になって、強制的に「頂上」の人の話を聞かされる生徒たちに、或いは近くにそういう存在がいて、本意でなくそんな話を押し付けられている人々に、この小説が届けばと思う。人に示された場所など気に止める必要もなく、かつあなただけにしか見えない景色がいつだってあるということに少しだけ誇りを持っていて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?