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ブルキナファソのアンジ【環境問題小説】

西アフリカの世界有数の貧しいブルキナファソという国に、あるアメリカ人が降り立った。世界中を旅することが彼女の人生の目標でもあり、生き甲斐でもあった。
世界的に成功した飲料メーカーの幹部の家に生まれ、何でも手に入れられることを知って生きてきた。カナダに行くことも南アフリカに行くことも日本に行くことも彼女にとっては簡単で、同じだった。世界のどこへ行っても、いつも見たことないものが彼女を覆って、いつも新しい何かが彼女を包んだ。
西アフリカの小さな小さなブルキナファソという国に、彼女はまた何か新しいものを求めてやってきた。

ホテルは小さかったが、小綺麗で設備も整っていた。ロビーではエスプレッソマシンが彼女を迎え、部屋ではマッサージチェアが彼女を癒した。彼女はホテルに着いて、高級そうな夜ご飯を食べてから眠りについて、次の日は、彼女の決めた通りマーケットに出た。
道の両端に店を並べたというよりも、店を並べてその間を道にしたといった感じのマーケットだった。迷路のように十字路とT字路、ただの角が交互に現れては人を飲み込んでいった。押し車が前方から向かってきては、人々が両脇の店に入るように道を開け、業者はそれが当たり前のような顔をしながらも、「どうもどうもありがとう」と言いながら通っていく。そうかと思えば、牛の脚肉を肩に担いだ人が前方から歩いてきて、人々は再び道を開ける。ハエ1匹寄っていない新鮮そうな肉は理科の教科書で見た筋肉模型そのものである。1日かけても、この迷路のようなマーケットを回ることは不可能であろうと彼女は察しながらも、何か面白いものは無いかと歩き続けた。




正確に言えば面白いものはいくらでもあった。伝統的な手織りの布は一つ一つ同じものはなく、自然の染色であろう色も、歴史的な何かを秘めていそうな模様も実に鮮やかで美しかった。しかし、そのようなものが並ぶ店が永遠に続いている。右を見ても左を見ても、至る所にそんな店がある。彼女はその膨大な中から選ぶことが実に困難であると感じた。それから、この大きな布をどう使うのが正解か彼女は分からなかった。
回りに回って、彼女は人混みに疲れ、一方向にずっと進み始めた。人混みの奥に開けた景色が見え、彼女はそこに向かって歩いた。思っていたよりも遠かったが、しばらくしてようやく彼女はそこに辿り着いた。そこはマーケットの外れで、砂時計の砂が仕事を終えた時のように、人々は細いマーケットの道から開けた場所に一気に開放された。彼女はそこに止まることが、後方から来る人々の反感を買いそうだと思いながら、しばらくそのまま歩いた。やがて少し景色が変わり、道が凸凹になり、トマト缶を腰から下げたストリートボーイが増えた。

彼女は面白くないと感じ始め、再びマーケットに戻ろうと振り返った。そして、2歩くらい歩き始めた時、視界の右端の方に佇む1人の少女の影が目に入った。彼女は少女に引き寄せられるように、とても強い興味を覚えて歩み寄った。
近づいてから気が付いたが、少女は右手の肘から下がなく、ボロボロの服を着て、黒ずんで汚れた顔の中に、瞳だけは人一倍綺麗で、それでいてどこか硬そうな表情をしていた。
彼女は寄って行ったはいいが、何も通じる言語はないだろうと思った。
「こんにちは」
少女は彼女の顔を見て、ニコリともせずに英語でそう言った。彼女は驚きつつ
「こんにちは、英語が話せるの?」
と返した。
「ええ、話せるよ。私の名前はアンジよ」
「私はカミーノよ」
アンジは少しも硬い表情を崩さなかった。カミーノは少し戸惑いながら会話を続けた。
「素敵な名前ね。どんな意味なの?」
「知らないわ、この国ではよくある名前よ」
「そうなのね…アンジは何歳なの?」
「15よ。昨日で15になったわ。カミーノ、あなたはどこから来たの?」
「アメリカよ。ここからは遠いけれど、世界で1番大きな国よ。知ってるかしら。」
「知ってるよ。カナダとメキシコの間の国でしょ。それからフランスと仲良い国ね」
アンジはぶっきらぼうに話した。カミーノはまた驚いた。
「よく知ってるのね」
「ええ、知ってるわ。私は勉強が好きなのよ」
「そうなのね、それは素晴らしいことだわ」
「そうかしら、私はそうは思わないわ。学校で勉強したことなんて、自分一人でも勉強できることだったわ。お父さんが教えてくれたことの方がよほど役に立ったわ」
「でも、学校では友達ができるし、みんなと一緒に勉強するのは楽しいでしょう?」
「それはきっとあなたの国の話ね。ブルキナでは生まれた時から友達なんて無限にいるわ。勉強が楽しいなんて思っている人は殆どいないわ。みんなやらされているだけよ。ここではそうなの」
「そうなのね…それはでも確かにアメリカでもそうだわ。私も勉強は好きじゃなくてね、学校には友達と会うために行ってたわ」
「そうなんでしょうね。私は学校に行っている間に、お母さんから農業を学ぶ時間を失ってしまったわ」
「どういうこと?」
「私の村の子はね、家が農家のことが多いから、歩けるようになったらお母さんと一緒に農場に出るのよ。4歳になる頃までには、食べられる植物と食べられない草の見分けがつくようになるわ。それから畑の作り方、種の巻き方、水のあげ方、世話の仕方、色々と習うのよ」
「それは凄いわね、私がそのくらいの歳の頃はまだ何もできなかったわ」
アンジはカミーノのつまらない相槌に耳も貸さずに続けた。
「最初は一緒にやるだけよ。お母さんは何か言葉で教えるようなことはしないわ。子供はお母さんの真似をするだけよ。雑草を抜いて、種をまくくらいしかできないわ。でも、もう少し大人になると水を運べるようになって、鍬が使えるようになって、それからトウモロコシの収穫ができるようになるわ、本当はね。でも、学校に行くようになると途中までしか学べないわ」
「そうなのね」
「子供たちは、大して役に立たない知識を持つために学校へ行き、お母さんやお父さんとの時間を失って、生きていく上で大切なことを学ぶチャンスを逃すのよ」
黙ってしまったカミーノを見てアンジは少し気を遣うように話を変えた。
「どうしてあなた達の国の人は勉強が好きでもないのに学校へ行って勉強するの」
「…分からないわ。私の先生は、たくさんのことを勉強すると将来の道がたくさんあるからと言っていたわ」
「それはいつかやる仕事の選択肢が増えるということ?」
「あ、そうよ。その通りよ。そうなれば、たくさんの仕事の中から好きな仕事を選べるでしょ」
「選べたの?」
「え」
「好きな仕事を見つけたの?」
真顔で単刀直入にそう聞かれると、カミーノは少し戸惑ってしまった。
「そうね…みんなが見つけているわけではないわ」
「そうなのね。私もいくらか学校で学んだけれど、そこから仕事を見つけるのは無理だと思ったわ」
「アメリカの人はね、仕事をしたい人はあまりいないわ」
「それはそうよ。ブルキナの人もそうよ」
2人は少し黙った。
「ブルキナファソはとても暑いね」
「カミーノ、こっちに来て座ったら?そこに長く立っていると太陽にやられるわよ」
「ありがとう、それもそうね」
カミーノはアンジが座っている小さい木の影にあるレンガのような石にそっと腰を下ろした。
「涼しいのね」
「木は私たちの味方よ」
「アメリカにいる時は木の影で休むことなんてないわ」
「そうでしょうね、だから木を切っても何も思わないんでしょう?」
「…いえ、私たちも木を切ってはいけないことは知っているわ」
「でも、切っているでしょう」
「全く切らないのは無理よ」
「分かってるよ。アフリカではここ十数年で半分以上の木が失われたわ」
「そうなのね…」
「半分の木を切らないといけないほど、必要だと思う?」
「それはそうね…」
「切った木が欲しいのはアフリカ人ではないわ。アフリカ人が欲しいのはお金よ」
「そうなの?」
「アフリカ人の多くは、木の大切さを知っているわ」
「そうよね」
「木陰になるからだけではないわよ。私たちは木と一緒に生きているのよ」
「…」
「あなた達はもう違うでしょ。だからわからなくなってるわ」
「…」
「日本人は樹を切るのが好きでしょ。とても歴史ある場所の木でも切ってしまうでしょ。表ではとても歴史のある国だと言って、たくさんの人がその深く長い歴史に魅了されてきたことを知っているのに、それでも歴史ある森を伐採しようとしてるんでしょ」
「私は日本は大好きだけど、それは知らなかったわ」
「無理もないわ。日本人も知らない人が多いらしいわ」
「そうなのね…なぜあなたはそんなことまで知っているの?」
「勉強したからよ。たくさんのことを勉強したからよ。言ったでしょう、私は勉強が好きだと。」
「そうね。凄い方ねあなたは」
「ありがとう」
またアンジは少しも笑わずにそう言った。
「アンジ、何か食べに行かない?」
「良いわよ、でも私はお金もっていないわ」
「良いのよ」
「ありがとう」
「朝ごはんは何を食べたの?」
「朝は何も食べていないわ、最後にご飯を食べたのは昨日の朝よ」
2人は腰を上げ歩きながらまた話し始めた。
「そうなのね…私の父は発展途上国にお金を寄付しているのよ。子供たちの教育や食料確保のために使われているらしいわ」
「どうだろうね、あなたのお父さんが善意でしてくれているのなら責めたくはないけれど、きっとあなたのお父さんがどれほどのお金を送っても、そのほとんどは、私たちに入る前に誰かの懐に入っているわ」
「本当に?」
「カミーノ、あなたどれほどのお金がアフリカに向かって送られているか知ってる?賢く使えば、私のように2日も何も食べない子供はいないはずの額のお金が寄付されているわ。けれど、実際はそうなっていないわ」
「そうなの?」
「何も知らないのね。そうよ。まだ寄付額が足りていないとでも思っている?そうではないわ。あなたのお父さんは誰にお金を寄付してるの?」
「そういう団体があるんだけど…」
「その団体は食料を作れる?食料を送っているの?ええ、違うわ。私たちはその団体を知らないわ。そんなものよ」
「…」
「興味ないのね。自分のお金がどこに行くかお父さんは気にしていないの?あなたのお父さんがそうかは分からないけれど、ナサラ(白人と黄色人の総称)の国の金持ちは、税金対策のために寄付をしている人が多いというわ。そのお金がどこに行っても興味ない人も多いそうよ」
「そうなのね…」
「そんなものなのよ、あなたのお父さんのことは知らないけどね」
2人はレストランのようなところに着いた。ファーストフードのようなものが多く並ぶチェーン店だろう。カミーノは少し安心したような表情になった。
「アンジ、ここはどう?」
「カミーノ、あなた、あそこのサンドイッチらしい食べ物の中に何が入ってるか言える?」
そう言ってアンジはハンバーガーらしき食べ物を指で示した。
「えっと、パンとトマト、玉ねぎ、チーズ、肉、それとレタスかしら…」
「それだけ?」
「あ、もちろんソースも入っているわ」
「ソースには何が入っているの?」
「えっと、なんだろう…ソースはソースよ」
「知ってるわ、あなたがそう答えることを知ってるわ。ソースには食品の添加物が嫌というほど入っているわ。そして、あなたはその名前すら知らないわ。私は名前は知っているけれど、それがどんなものか、何からどう作られたかを知らないわ。パンもそうよ、それと肉なんてほとんど入ってないわ。肉だと思わされているだけよ」
「…」
「私は自分の知らないものが入っているのなら、食べられないわ。あなたは違うみたいね」
「分かったわ。あなたは何を食べたいの?」
「あそこのお店でジュースを飲もうよ」
アンジは道の反対側にある小さな店を指さした。2人はそこに向かって歩いた。
アンジは店員と他のお客さんに挨拶しながら席に着いた。客も店員も、ボロボロの服を着た少女が白人を連れて歩いてくるのを驚いた表情で見ていた。カミーノはアンジに倣って挨拶をした。
「カミーノも私のおすすめのジュースでいい?」
「ええ、もちろんよ」
「生姜と砂糖が入ったジュースよ。この国でずっと昔から飲まれているのよ」
「そうなのね。ありがとう。初めてだわ」
「…」
「さっきのサンドイッチに入っている肉の話は本当なの?」
「ええ、たぶんね。私は詳しく知らないわ。どうせ食べないから調べなかったわ。でも、たぶん大豆か何かを使ってそれらしい食感にして、あとはエキスよ。肉みたいな匂いと味がするエキスよ。添加物ね」
「そうなのね…」
「大豆も人間が作り替えた食べ物よ。自然の大豆とは違うわ」
「遺伝子組み換えみたいなこと?」
「それかどうかは知らないわ。でも、同じようなことだと思うわ。虫が寄らない変な植物よ。私のお母さんはいつもたくさんの野菜や豆を育てていたわ。穀物もね。それがある時、外国からたくさんの穀物が入ってきて、私のお母さんが作っている野菜は売れなくなったわ」
「どういうこと?」
「私のお母さんは、地元の小さなご飯屋に取れた野菜や穀物を売っていたわ。野菜が取れない年もあったけど、それでもみんなで工夫して乗り切っていたわ。でも、外国のお店が入ってきて、とても安い値段でご飯を売り始めたわ。あなたのように、知らないものばかり食べても気にしない人がたくさんいたから、地元の小さなご飯屋はやがて潰れたわ。お母さんは卸先を失ってしまった。前よりも貧しくなったのよ」
「遺伝子組み換え作物とどう関係してるの?」
「大量に作るでしょ。殆ど捨てているらしいけど。それが安い理由よ。機械を使って、大量に作るでしょ。私のお母さんは全て手でお世話をしていたわ」
「遺伝子組み換えとかの食物は、アフリカのように植物が育ちにくい土地で野菜や穀物を安定して作ることができるようにするためだと学校では習ったわ」
「アフリカでは昔から植物が育たなかったと思ってるの?確かに、何も取れないような年もあるわ。けれど、私たちは私たちのやり方で乗り切ってきたわ。本当にアフリカのためにやっているのなら、私の母のような人の仕事を奪うやり方はしないはずよ。地元のお店が潰れて、人々は食べ物を得られなくなった。お金が必要な訳では無いわ。食べ物が必要なだけよ。でも、今は仕事を見つけてお金を持たないと食べられないわ」
「そうなのね…このお店もいつかはなくなってしまうの?」
「そうね、時間の問題よ」

「美味しい飲み物ね。乾いた喉が一気に潤ったわ」
「私のお爺さんがこんなことを言っていたわ。旅に出たら旅先のものを食べろって」
「それはどういう意味?」
「ブルキナの暑さと乾きを1番解決できるのは、ブルキナの飲み物だということよ。決してコカ・コーラとかではなくてね」
カミーノはその言い方が面白くて笑い出してしまった。それから笑うのをやめて話した。
「いつもは何をして生きているの?」
「農業よ。色々してるけど、農業が1番やってるわ」
「野菜は売れるの?」
「あまり売れないわ。でも、肉や魚を扱う人々と野菜とか穀物を交換して食べるわ」
「そんな人達がいるのね」
「そうよ。アフリカ人を助けるのはいつもアフリカ人なのよ、昔からそうなのよ」
「そうなのね」
「アフリカ人を売ったのもアフリカ人だし、アフリカ人を差別するのもナサラと仲良いアフリカ人だけど、助けてくれるのは必ずアフリカ人よ」
ジュースの中の氷が溶けていくのと同じように、カミーノは余りに何も知らない自分の居場所がなくなって行くのを感じた。
「カミーノ、もう行きましょう。あなたはもう少しマーケットに行きたいでしょう?」
「あぁ、そうね。ありがとう。これ全てでいくらかしら。」
「100フランだよ」
それは0.1ドル、すなわち20円ほどだった。あまりの安さにカミーノは驚きを隠せなかった。
「アンジ、少し遠くまで来てしまったからマーケットの場所を教えてくれる?」
「そのつもりよ。一緒に行きましょう」
「ありがとう」
2人は店を出て、来た道を引き返した。どれほど歩いたかはよく分からないが、その間も2人はずっと話していた。

「アンジ、あなたはきっとこの国に必要な人よ」
「ありがとう。でも私と同じような人が腐るほどこの国にはいるわ。毎年たくさんの人が立ち上がっては潰されて、最後には殺されるわ」
「…」
「アフリカ人をバカにしないでね。私たちはあなたがたの国の人と同じくらいには優れているわ」
「そうね…バカにはしていないわ」
少し間を置いてから、再びカミーノが沈黙を破った。
「私にできることはあるかしら?」
「あると思うよ。いくらでもあると思うわ。その右手に付けているダイヤモンドを二度と買わない事ね。あなた達がそういう石を買わなくなれば、アフリカのあちこちで起きている紛争のほとんどは終息するわ」
「そうなのね…」
「私のお兄ちゃんは私よりも小さい頃に、そこで働いていたけど、帰ってこなくなったわ。お母さんは死んだんだと言っていた」
「…」
「それから、あなたのお父さんはアフリカに寄付をするのを辞めた方がいいわ。それは結局何の助けにもなっていないわ。格差を広げ、不必要な利益は争いと汚れた社会を作るだけよ。ブルキナはブルキナ人が作っていくのよ。外国人が入ってきても、私たちのことを知らないから何も良いことは起きないわ。畑の作り方を偉そうに教えてるみたいだけど、私たちはもう何百年も何千年もここで畑を作ってきたわ。あなた達より知ってるわ」
「そうね、それはそうよね」
「私たちは工夫することも与えることも知ってるし、逃げることも追うことも知ってるわ」
「…」
「あと、やることがあるとすれば、フランス政府が未だに私たちの国から、たくさんのお金を搾取していることをアメリカ人はみんなが知ることね。そのお金があれば、ブルキナはどれほどの人が満足にご飯を食べられるようになるかしら。フランスにも他の国にも求めることは、外から手を出して来ないで欲しいだけよ」
「そうよね…考えてみればおかしいわ。あなたみたいな人がたくさんいるのなら、先進国の助けなんて要らないわよね」
「そう。分かってると思うけど、あなた達の国は助けたいんじゃなくて、出喋ばりたいんでしょ。そして儲けたいだけ。あとは、西と東のくだらない争いをしているせいで、私たちを味方にしたいだけ。金も石油もあらゆる資源がある私たちをね」
「…」
「だから、何もしないで。アメリカも中国もヨーロッパも日本もどこも全部、何もしないで。私たちの国は私たちで作るわ。あなた達のやり方では国が腐るだけよ。だからあなた達は国も団体も何もしないで。古着も何も要らないわ、ゴミが増えるだけよ。必要ないわ。アメリカで隣の家に勝手に入って木を切ったりしないでしょ」
「そうね…」
「それから食べるものを気を付けたらいいわ。買う物も気を付けたらいいわ。それだけで良いわ」
「つまり、何も新しいことはする必要ないの?」
「そうよ、いくつかのことを辞めるだけ。それか少し変えるだけ。それだけ」
カミーノは少し拍子抜けしたが、少しだけ納得した気がした。
そう言っているうちにマーケットが見えてきた。
「アンジ、ありがとう。ここまで来たらあとは分かるわ。あとはホテルの場所をマーケットの中で人に聞くわ」
「そうね、あなたが泊まるようなホテルは1つしかないわ。あの通りをまっすぐ抜けて、2人の男が並んで赤いミシンを使っている店の角を左に曲がって。そこからまっすぐ行けばこの街で唯一あなたが好きそうなホテルがあるわ」
「ありがとう。この街のこともなんでも知っているのね」
「ここで育ったからね」
「アンジ、あなたに会えてよかったわ。私は世界中を旅してきたけど、何も知らないのだと思い知ったわ」
「私もカミーノに会えて良かった。何も知らないのは仕方ないわ。あなたの国では勉強が嫌いな子でも、無理して15年も学校に行かないといけないんでしょ。牢獄みたいね。それは勉強アレルギーになるわ。小麦アレルギーくらい大変だわ」
「そうね、勉強という言葉も嫌いになってしまっているかもしれないわ」
「グアテマラに行ったことはある?」
「あるわ」
「カンボジアには?」
「あるわ」
「たぶん、そこにも私のような子はいたはずよ。あなたは歳とって少しは旅先で見るものが変わったのよ。同じような子供を見たことがあるはずなのに、今日だけあなたは私のような子供に話しかけようとした」
「…」
「きっとそれでいいのよ。私はたくさんのナサラがこの国に観光しに来るのを見てきたわ。けれど、私がちゃんと話したのはあなたが初めてよ」
「そうだったのね」
「カミーノ、私はあなたがこちらへ向かって歩いてきた時、少しだけ嬉しかったわ。まだあなたのような人の視界に自分が入っているのだと思ったわ、ナサラはみんな見て見ぬふりをしているか、私たちのような人なんて見えていないのだと思っていたから」
「そんなことないわ。確かにあなたの話を聞く限り、見えていないような行動ばかりだけれど、間違いなく見えているわ」
「カミーノ、あなたは勉強が嫌いだと言っていたわね。私は勉強なんてしたくなかったらしなくて良いと思うわ。でも、今日あなたが私に興味を持ってくれたように、興味があることは転がっているわ。それを知ろうとすることを勉強と言うらしいわ」
「そうね。教科書や本を開くことを勉強というのだと思っていたわ。大きな誤解だったわ」
「さようなら、カミーノ。もうきっと、あなたはこの国には来ないわ」
「いいえ、来るかもしれないでしょ」
「どうかな。私は弟が待っているから帰るね」
「ええ、次にあった時は服を買いましょう。あなたが欲しい場所でね」
「その時はこの服を捨てる時ね。あなたは知らないかもしれないけど、1つ買ったら1つ捨てるのが普通だからね」
「あと何年その服を着るつもり?」
「そうね、あと3年は着れるんじゃないかな」
彼女の驚いた表情を見て、アンジは少しだけ笑った。くるりと背を向け、アンジは少しも振り向くことなく去っていった。その背中が少し名残惜しそうだったのをカミーノは感じ取った。カミーノはアンジが角まで行くのを待ってから、くるりと背を向けマーケットに向かって歩いていった。
マーケットの入口が徐々に近づき、人々がそこに集まっていく。
それはまるで砂時計の仕事前の砂のように、広いスペースから狭いマーケットの道に、我先にと言うよりは流れに身を任せ、人々は進んでいく。誰も生き急いではいない。そんな人々の流れの中に身を任せ、カミーノは一緒に入っていった。
数時間前に通った道を同じペースで進んでいく。肉や押し車を持つ業者は、時として進むことを妨げるが、それは左右の店をゆっくりと見る時間を作っているとも言えた。流れに任せ、前の人を追うようにだけ歩けば左右の店を見る余裕などないからだ。そうして、時々立ち止まり、両脇の店の中を見たり、進んできた道を眺めたり、その先の道を眺めたりすることがどれほど重要な時間かをカミーノは行きよりもちゃんとわかる気がした。

もし仮に、時間を戻して、アフリカ諸国の王とフランスを初めとするヨーロッパの王が、支配関係ではなくて友人関係として関わっていた頃に戻せたら、ヨーロッパのコーヒー流行の影響を受けずにアフリカ人がアメリカ大陸に奴隷とした連れて行かれずにアフリカの発展に寄与し続けることができていたら、アフリカとヨーロッパやアメリカが友好的な関係を作れていたら、カミーノはそんなことを考えながら歩いた。もし、砂時計のように簡単に時を戻せたら…

カミーノはホテルに着いて、エスプレッソマシンの前に立ち、それが本物のカカオを殆ど使っていないものだと表記を確認してから、飲むのを諦めた。部屋に戻り、右手のダイヤモンドの指輪を付け続けることがいくらか恥ずかしく思えたが、自分への戒めとして、そしてもう二度と買わないために、外さずに付け続けることにした。それから、ノートを開き、学んだことを書こうとしたが、ノートを閉じて頭に記した。


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