見出し画像

「WALK」

 今年、五度目の青い月が昇った夜、行きつけの麻布のバーで六杯のバーボンと四つのピスタチオを口にした、その二時間後、バーから三つ目の交差点で乗車拒否されたタクシーのテールランプを横目に二度嘔吐した、嘔吐しながら四粒ほどの涙を流した、胸の中心のあたりに空洞があるのを感じた、そんな夜だった…。
 バーの名前はSAMMYS BARといったが、店主の名前は花岡という五十近い白髪交じりのジェントルマン風の男で、店によく来ていた常連と二度結婚し二度離婚した婚歴を持っていた。
 彼が昔飼っていた猫の名前がサミーでサミーの古い写真が店のトイレの片隅に貼ってあった。猫好きのマスターは長い、あまりにも長過ぎるアイスピックでもって丸氷を器用に作り、店でオールディーズを流すのを好んでいた。オールディーズといってもアメリカンポップスが殆どで、どの曲も使い古された名曲でシンプルな木目調の店内の様相と同じで邪魔にはならなかった。そんな何でもないSAMMYS BARが好きというわけでもなく、なんとなく居心地が悪くないという理由でここ数年通いつめていた、通いつめていたといっても一ヶ月に一回か二回行くか行かないか、一人で本当に飲みたい時、ふいに訪れる、そんな店だった。サミーはとうに亡くなっていた、花岡はサミーの後、ペットを飼うことをやめていた。

 西麻布交差点まで出て六本木通りを渋谷方面に歩きだす、時間はもう少しで明るくなる午前四時、タクシーがいっこうにつかまらない、珍しいことだった。六本木通り沿いの洒落た店も深夜にはシャッターを閉めて人の気配もありはしない。四月の一週目の木曜の深夜、街の景気は良いのか悪いのか?人の気配はないものの、タクシーはひたすらつかまらない。回送か乗車中のタクシーにはどこかで散った桜の花びらが薄っすらとついていた、桜の花びらをまとったタクシーに乗車して帰るのも悪くはないがもう少し歩いてみたい気分にもなった。渋谷近辺にでも行けばタクシーもさすがにつかまるだろうし、嘔吐した後の悪い気分も晴れるだろう、そんな風に考え歩きだした。
 吐くまで飲むには理由があった、単純な話だ、胸の真ん中の空洞の理由、仕事で大きなミスをしたのだ。大きな損失を会社に負わしてしまった。きっと間もなくしてボクはクビになるか、良くて異動だろう。デザインの世界で二度大きな成功をした。その装飾まみれの功績に胡座をかいて大きなプロジェクトに適当仕事を出してしまった。自分でも分かっていた、自分がデザインしたものがどんな結果を招くか、でも、どこかで「きっと大丈夫さ」という驕りがあった。そして、やはりというべきか必然というべきかボクのデザインした製品は大コケした。売れなかった理由は他にもあったのだろうが、その責任は今ひとつなデザインに向けられた、チーフデザイナーであるボクは追求の矢面に立たされてしまった。
 クビならこれを機に独立してもいい、ちょうどいいタイミングなのかもしれない、年齢も四十二歳、まだまだやれる、自分ならもっといいアイデアも浮くかもしれない。

 六本木通りの空虚感といったら半端ない。肌寒い風を凌ぐスプリングコートの薄地の切なさを考えると、その頼りなさは今の自分を見ているようで言葉にもならなかった。自動販売機でヴォルビックを買い、疲れ果てた口中を洗い流す、歩きながら口に含んだ水を電柱のたもとに吐き出す、とにかく今は自分自身をリセットするために何もかも洗い流す必要があったが、熱いシャワーより一口のミネラルウォーターで口の中をクリアにすることが精一杯だった…。

 クミコとは三ヶ月会ってなかった。クミコに出会ったのは二年前、最初はボクの大学時代の友人の出版記念パーティーで会い、ほどなくその友人が招いてくれたバーベキューで再会し、お互い波長が合い交際することになった。彼女はフリーのカメラマンで、植物をメインにした写真集で脚光を浴びていた。三十八歳の女流カメラマン、そんな経歴に最初は興味を示したが、彼女は何より自由でそれでいて気品さを兼ね揃えていた。ボクは気品さを持ち合わせている女性に弱かった。そういう女性と出会うと、寝てみたくなるのだった。クミコの場合は一緒に過ごしていて楽だし、遊びで終わらせるのにはもったいない女だった。

 クミコは不思議な女で、メールも電話も一切よこさない氷のようなクールな女だった。しかし、週に一回程度自分で撮ったであろう植物の写真を携帯電話に送ってくるのだった。だから誘うのはいつもこちらからだった。キスもセックスもうまい女だったから、ボクは月に二回は彼女に連絡をとり自宅によんだ。それで付き合っていると言えるのか分からなかったが、二人の関係はボクが彼女を呼び出し、自宅で適当な料理を作り、彼女に上等すぎはしないが旨いワインを与え、空腹を満たしたら性欲も満たした。そして大抵の場合、ボクがまだ寝てるうちに彼女は死期を悟った猫のようにそっと消えていた。ボクの住んでいた三軒茶屋から彼女の住む南新宿まで、彼女はいったいどんな顔をしてタクシーに乗るんだろうか?黒目の大きな目をパチクリさせているのだろうか?それともベリーショートの髪についた寝癖を少し気にしがなら、細い指でいじくりながらだろうか?長い首のセンスの良いチョーカーを少し退屈そうにいじりながらだろうか?とにかく、彼女がボクのいないとこでどんな風に過ごしているのか気になってしまっていた。つまり惚れたのはボクの方ということなのだろう。

 SAMMYS BARにほんの一度だけ彼女を連れて行ったことがあった。その日はクミコの個展が乃木坂のギャラリーであった、最終日で少し気分が良かったのだろうか、たまにはどこか行こうか?なんて彼女が切り出した、珍しいことだった。
 ボクは西麻布の京風おでんの店に連れていき、その帰りしなにSAMMYS BARに連れていった。
 SAMMYS BARにはいつも一人で行っていたから花岡がボクの方に向かって、今日は珍しいですね、なんて聞こえるか聞こえないかくらいの声で話しかけてくれたことを覚えている。店内ではアレサ・フランクリンがかかっていて、クミコはBGMに合わせ、その細い身体を少し揺らしていた。京風おでんの店で日本酒を少しやり過ぎたせいか彼女は酔っていたのだろう。花岡は中休みにと弱めのブルドッグを作ってくれた。

 彼女から写真が送られてこなくなった、四ヶ月くらい前だろうか?ボクも最初は気にも留めなかったが、唯一彼女からの生存確認ができるやりとりが無くなってしまい、さすがにボクの方から、大丈夫?生きてる?なんてメールを何度か送ってみたが開封はされど返信は無かった。そして、毎日の忙しさやミスデザインの責任が浮き彫りになりだして、ボクは彼女どころではなく、連絡さえとらなくなった。
 せめて、新しい彼ができました、もう会えません、別れましょう、くらいメールがあればもう少しキッパリと気分も晴れるのだが、一向に連絡がないのは逆に気分が悪くなるばかりだった。
 いわゆる自然消滅という形の別れなのだろう、しかし、こんな形もクミコらしかった。クミコは自由な女だった…。

 六本木通りの境目っていうものはいったいどこなのだろうか?六本木と西麻布はひとつながりな雰囲気をもっていた、高樹町も西麻布の雰囲気を引きずっている。やはりトンネルが境目だろか?六本木通りを六本木から渋谷方面に歩くと青学と実践女子の敷地近くに首都高と並走したトンネルがある、このトンネルを超えると一気に渋谷という様相であった、街の境目を感じるのにはやはり歩くのが一番だ。
 深酒の気持ち悪さを拭いきれた頃、ボクは六本木通りのトンネルの真ん中まで辿り着きそこで立ち止まった、歩道の常備灯の無機質な灯りを感じながら耳を澄ました、ここではアレサ・フランクリンもご機嫌なオールディーズもかかっていない、聞こえるのは車の行き交う排気音と、トンネルの入り口と出口二つの街両方から聞こえる雑多な音だけだった。それが音楽といえるのかどうか分からなかったが、今夜のボクにはノイズでさえ心を癒やしてくれるように感じられた。まあ、つまりはそれだけボクは「やられている」「参っている」ということだろう。
 トンネルの真ん中でボクはボク自身の位置確認をした。ボクは今まさに境目に立っているのだろう、仕事もプライベートも…。
 仕事は独立したっていい、このまま会社に残り続けたところで海外帰りの素晴らしい才能をもった若手デザイナーにいつかは追い抜かれて、目も当てられない存在になるのは明らかだったし、自分のビジョンとしてもいつまでも雇われるのは嫌だった。
 じゃあプライベートは?こっちの方がややこしい。クミコをつなぎとめることも出来るだろうが、それがボクらしい選択だろうか? 彼女とこのまま自然消滅してしまうことは楽だろうし、もしかしたら連絡がないということは彼女もそれを望んでいるのかもしれない。自分の気持ちに素直になると、彼女をこのまま失うのは惜しい気がした。「惜しい」という気持ちだけで彼女と真っ向と対峙できるのか、それは分からない。それほど彼女には魅力があったし、ボクの空洞となった疲れきった胸の中でも彼女の存在は生き続けていた。
 人を好きになるというのは、その人の人格が自分の胸の奥にトレースされるような感覚だ。彼女だったらどう考えるだろう?彼女だったら何を選ぶだろう?彼女は今どこで何をして、何を感じているのだろう?彼女は以前こう言っていた。以前こんな主張をしていた。以前こんな笑い方をしていた。以前こんな言葉を投げてきた。
 彼女だったら…という「If」を考えてしまう。こういうのが惚れた方の負けということなのだろうか?しかしながら、一方でこのまま彼女と過ごしていたらいったい自分はどうなるだろうか?どんな未来が待ち受けるのだろうか?うまくいきっこないという想いもあった。

 トンネルを抜けて渋谷三丁目の交差点、ここまで来ると明らかに街が変わっていた。SAMMYS BARでは今頃閉店準備を終えた花岡が自分への褒美としてピースに火を点けているに違いない、彼の日課は仕事終わりのピースを毎日一本吸うことだった。以前、そうクミコと珍しくSAMMYS BARに行った夜、飲み疲れて、いよいよ閉店という時間まで居残った時、彼の習慣を目撃した。ボクは煙草を吸う花岡を初めて見たので、少し驚いて、つい話しかけてしまった。吸うんですね?確かそんな簡単な言葉だったと思う。そんなボクに花岡はその行為が日課だと、いつものように物腰の柔らかい言葉使いで説明してくれた。クミコはボクの右肩に頬を寄せ安心しきったような寝顔をで寝ていた。クミコは自由な女だった。
 無性に煙草が吸いたくなった。煙草は美大時代、二十年近く前だろうか、とうの昔にやめていた。当時も自由な女と付き合い、別れ、また出会い、そしてまた別れるを繰り返していた。昔からボクは変わらないのかもしれない…。

 交差点を渡り、人の気配のまったくしないコンビニに入り、ボクは花岡と一緒の銘柄のピースとライターを買い求め、路上で火を点けた。
 もうすっかり明るくなっていた空にボクの吐き出す煙が心地よさげに漂う、煙の向こうにはもう既に光を失い、白びた月が心配げにボクの方を見ていた。
 ピースを半分くらい吸ったとこでボクは、とある決心した。ボクはスプリングコートの右ポケットに孤独に放り込まれた携帯電話を取り出すとクミコの連絡先を検索し削除した、不思議と躊躇いはなかった。
 うん、これでいい、これでいいんだ、言い聞かすような声が空洞になった胸の中心から聞こえてきた…。
「さあ、帰ろう…」
 空車のタクシーをつかまえるためにボクは元気よく右手を挙げた…。

(終)
*オールフィクション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?