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客観ってなんだろう 雑記#04

最近、静物デッサンを習い始めた。絵や写真に関してあまりにもセンスも知識もないから、仕方なく始めたという感じだ。建築学科の大学院に戻るなら役立ちそうだし、そうでなくても何か得られそうだと思ったからだ。

そして、絵を習って最近感じていることは、目の前にある事実は、大抵は想像していたものとは違っていて、自分で作るしかないということだ。

例えば、そこに、球がある。

球があると周りの輪郭が描かれ、余白と区別される。光が当たっているので陰と影ができる。

陰は地球の夜のように、球の裏側を暗くする。影の形は潰れた円で、球とは絶妙な位置と大きさになっている。残念ながら影の位置関係は、かなり定義しずらい。別に、具体的な平面は描かれないし、奥行と傾斜は同じように描かれて、区別できないからだ。止むを得ず自分で決めるしかない。描く。

しかも、よく見ると、明るい部分も周りから受ける光のせいで、明るさが違う。一番明るいところと区別するため、見えている球は白いのに黒鉛でグラデーションをかけるらしい。塗る。

床からの反射光がある。そこに床は描かれていない。でも影があるから、床はあることになっているらしい。反射光のあるどこからの光も当たらない、接地面周辺と、反射光のない扇型の部分は、比較的黒く塗る。

しかし、そこには球しかない。ただの白球である。にも関わらず、絵の中には、観察して本当にあるものも描かれることもあれば、意図的に作られたものもある。

なんとなく、目に見えているものは、かなり自分で選んでいるし、自分で作っているとも言える。アウトプットしたものは自分とは違う。自分が思っていたものとはずいぶん修正されている。

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私は最近、客観という言葉がとても嫌いになっていた。客観的だとか、もっと客観的にものごとを見れるようになれよ!という大人がよくいう言葉は誰が作ったのだろうか。その意味は何なのかもわからない。昔から私は必死に客観を見ようとして、主観を放棄するほうへ走った。

もっと客観的で理論的な知識を得れば、客観的になれると思っていた。論述的に正しいか、時には周りに比べて勝てる勝負かどうか。客観的な知識や情報を味方につければ、いくらでも勝ち抜いて生きていけると思っていた。気づけば23年間、周りの目を一生懸命気にして生きていた。負ける分野は放棄して、勝てる分野にこだわって、ある程度までは登れた。でも、登れば登るほど周りは強くなった。いつしかどうにも勝てなくなった。そして耐えられなくなって、自分のやりたいことを見失った。正確に言えば、やりたいことに気づけなくなった。今、一時的にモラトリアムなのも、その結果だろう、とは思う。

でも、どうやら客観的になることは、周りを見て行動することでもなく、主観を放棄することでもないようだ。

さっきの絵の話で言えば、自分が客観的に見ようとした姿と、自分が描いた絵の姿は明らかに違う。自分が客観的に見ようとしたものとは違うものが現れる。自分で要素を選んで作っているのに、私はそれを嘘だと思っている。今もだ。でも、それこそが客観的なのだろうなと思っている。あなたたちと私が共有できるものが客観だと、思えるようになってきた。まだ、飲み込めはしないけど。

スマホやSNSで世界のものごとが手軽に見えるようになった。やりたいことが無くなって、数ヶ月の間、いろんな人が一生懸命編集した情報や、罵倒のような論争を部屋でただなんとなく眺めた。そして、何か自分の知らない世界を知った気になっていた。が、飽きてしまった。それはただスマートフォンの枠という覗き穴から深淵を覗いているに過ぎないように感じるようになった。共有という感覚がないから、そこに私の主観なんてあり得ない。主観がない人間に客観なんてあるものか。

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何もやりたいことがなかったけど、なんだかアトリエの周りの飲食店を開拓することが楽しくなってきた。そういうところから、客観性が回復すれば良いかな。

しばらく塞ぎ込んでいたけど、外へ行く元気が出てきたようだ。

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p.s. 週一noteという企画に参加してみます。よろしくお願いします。



最後まで、ありがとうございます。糧になります。