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賢者のセックス / 第1章 賢者タイムとファンタジー / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

賢者タイムの失言

 賢者タイムという言葉がある。

 僕も最近ツイッターで見て知ったのだけれど、面白いので自分でも使うようになった。賢者なんていうとドラゴンクエストや異世界もののライトノベルのキャラクターを思い出すかもしれないけれど、賢者タイムとそれらの関連性は乏しい。

 気恥ずかしいので一度しか書かないが、賢者タイムとは要するに射精した直後の男が性欲を失っている時間帯のことだ。性欲だけじゃなくて、セックスの相手への興味も一時的に失われてしまう。女性にも似たような現象があるらしいけれど、詳しく調べたことはない。

 先週の日曜日の夜。ソラちゃんの隣で賢者になっていた僕は、ふと思いついてこんな話をした。以前から薄々、気になっていたことだ。

「あのさ、セックスしてるときに、どこかの風景が見えることってない?」

 ソラちゃんが眉根を寄せて首を傾げた。

「なにそれ? エロ系のラノベの設定?」
「そんな設定があるの?」
「知らないよ。ラノベなんか私、読まないし。君、いま何の話してる?」
「いや、本当に、真面目にさ。見えない?」
「風景が?」
「そう。してるときに」
「どこに、どうやって?」
「こう、脳内にさ。どっかで見たような風景が浮かばない?」
「浮かばないよ」

 ソラちゃんが苦笑した。ソラちゃんの細い髪の毛が緑色のシーツの上で微妙に揺れる。

「君はそんなの見えるんだ」
「うん。実は」
「いつから?」
「最近。去年の秋ぐらいからかな」
「ふうん。面白いね。それ。共感覚ってやつかな。小説のプロットになりそう」

 そう言いながらソラちゃんが僕の頬を軽くつまんだ。その時のソラちゃんの表情を、僕は一生忘れられないだろう。端的に言うならば、コンピューターゲームのバグを発見した瞬間のゲーマーの顔だ。ただし、ソラちゃんがその顔をすると、ゲーマーというよりは魔女がほくそ笑んだような印象を受ける。

 もちろんここで僕がイメージしているのは、ライトノベルに出てくる美しくてセクシーでチャーミングな魔女だ。『魔女の旅々』のイレイナみたいな。間違っても童話の『ヘンゼルとグレーテル』に出てくるような怖い魔女ではないからね。そんなものとソラちゃんを一緒にしてはいけない。

 でも、それはソラちゃんには決して言えない種類の褒め言葉だ。

 ソラちゃんは何故かラノベのファンタジーが嫌いなのだ。

 ラノベだけじゃない。ラノベが原作のアニメも、もちろんダメだ。たまにネットフリックスでラノベが原作のアニメを見ていると、ねっとりとした口調で質問される。

「それ、面白いの?」

 面白いと答えたらどうなるのか、一度試してみたことはある。

 もう一度試すことは、今の所考えていない。

優しい水

 僕たちは東京都下のベッドタウンで生まれ育った。新宿駅まで最寄り駅から昼間なら四〇分くらい。朝と夜はその五割増し。駅まではバスで一五分という辺りに僕たちは住んでいた。

 幼稚園は同じで、小学校は隣。中学校も同じだったけれど、ソラちゃんは僕よりも二つ年上だから、子供の頃は全く面識が無かった。高校は別。大学も別で、仕事も別。知り合ったのは二年前。僕が二六歳の時のことだ。

 友人の披露宴の二次会でたまたま僕が中学時代の話をしていたら、あれ、もしかして同じ中学じゃないのってソラちゃんが言い出した。それどころか幼稚園も同じで、乗っていた園バスも同じだった。僕たちは地元話で大いに盛り上がった。

 その後、僕たちはちょくちょくメッセージをやり取りするようになって、僕はソラちゃんの仕事の愚痴を聞く係になり、新型コロナウイルスで在宅勤務になってストレスを限界まで溜めたソラちゃんに酒の勢いで召喚され、そのまま実家を出て何となく一緒に住むようになった。それが去年の五月二五日のことだった。

 両親には「中学校の先輩とルームシェアをしている」とだけ伝えている。ソラちゃんもそんな感じだと思う。家事の分担割合は僕が九割くらいだから、まるでソラちゃんの使い魔になったような気分だ。でも、家賃はソラちゃんが七割も出してくれている。これはこれで悪くない。

 ちなみにソラちゃんが僕を召喚した理由は「指先のタップ一回で簡単に縁を切れる時代に、くだらないメッセージのやり取りに果てしなく付き合ってくれる若い男は珍しかったから」だとか。だから、愚痴聞きは今も僕の最重要任務の一つだ。

 もちろん、僕はただソラちゃんの愚痴を聞いて家事をしているだけではない。ソラちゃんとセックスもする。

 若い異性愛者の男女が一緒に住んでいるのだから、そうなるのは時間の問題かなと密かに思っていたけれど、なかなか僕からは誘うことが出来なかった。言い方が難しいのだけれど、今ならという瞬間のようなものが見つけられなかったのだ。

 そんな僕に業を煮やしたのだろうか。あるいは何かを見極めようとしていたのだろうか。ともかく僕たちが同居を始めて一ヶ月が過ぎたある晩のこと、突然ソラちゃんは僕の布団の中に入ってきた。そして、いきなり僕の唇を奪った。

 僕はすぐに夢中になってソラちゃんの唇を吸い、舌を絡ませた。いつの間にかソラちゃんの手は僕の股間へと伸ばされていて、ほどなく僕のものはパンツの外にひっぱり出された。ソラちゃんの指先が僕の先端を優しく撫でているのがわかった。僕はその時、まるで小さな優しい水の流れの中をただよっているような感覚の中にいた。

 しばらくしてソラちゃんの唇と舌と指先が離れていったところで、とても残念だけれどコンドームの持ち合わせがないと伝えたら、前の彼氏が置いていったものが残っているから、それを使えば良いよと言われた。そうなるともう、断る理由が僕にはない。でも、僕にとっては何年かぶりのセックスだったので、なんだかよくわからないうちに終わってしまった。

使い魔以上恋人未満

 それから、僕たちはちょくちょくセックスをするようになった。ほとんどの場合はソラちゃんに誘われてするのだけれど、たまに僕から求めることもある。僕から求めた時でもソラちゃんはいつも応えてくれるから、これは何と言うのだろう。友達以上恋人未満というのを思いついて幾つか検索してみたけれど、どうやらセックスはしない関係らしい。

 ではセックスフレンドというやつなのか。でも僕たちの関係の中でセックスが占める割合は、多分、一割くらいだ。さりとて彼氏と彼女というにはロマンチックな感情が不足している気もする。使い魔以上恋人未満、あたりがしっくり来るか。ただし、ソラちゃんとのセックスで射精した後の僕は、毎回必ず賢者になってしまう。使い魔から賢者への、時間限定のジョブチェンジの魔法をかけられているのかもしれない。理由はわからない。

 ソラちゃんは二九歳。スタートアップ企業の管理職をしている。インターネットの記事にもちょくちょく登場しているくらいで、業界ではそれなりに有名な人のようだ。人材育成のコンサルティングをしているとかなんとか。仕事の場では「出来るおねえさん」で通っていると、これは複数の情報源から聞いた話である。部下や取引先からは密かに「魔女さま」と呼ばれているとも聞いた。

 実際、家で仕事をしているところを見ても、そんな感じはする。素直クールという属性が実体化したみたいな。身長は一六〇センチをかなり越えていて、でも一七〇センチには届かないくらい。少しだけ茶色がかった細い髪の毛を肩の少し上くらいまで伸ばしている。呼び方がわからないのでいま検索してみたけど、多分「ロブ」というのかな。それだと思う。

 目鼻立ちがくっきりしていて、メイクをしてスーツを着ると、ストックフォトのモデルさんかと思うほどの美女になる。仕事も見た目も平凡なウェブデザイナーの僕とは大違いだ。

 でも、ソラちゃんはそれだけの女性ではない。ソラちゃんにはもう一つの顔がある。ファンタジー小説をこよなく愛する女性という顔だ。

 その愛は深い。僕たちが書斎と読んでいる六畳間にはファンタジー小説でびっしりと埋め尽くされた本棚が二つある。しかも半分は洋書だ。それどころか、ソラちゃんは大学院の修士課程まで行ってファンタジー小説について勉強していたそうだ。

 修士論文は『ふくろう模様の皿』というファンタジー小説と、あと何だっけ。『白鹿』だったかな。ごめんなさい、検索してみたら『白い鹿』だった。それを比較したのだとか。ちなみに『白い鹿』もファンタジー小説らしいです。日本酒じゃないからね。

 『ふくろう模様の皿』と『白い鹿』はウェールズの同じ神話を素材にしているらしい。どちらもヒロインと、ヒロインの親戚の男の子と、昔の王様の血を引く男の子の三人が三角関係みたいになるんだけれど、書いた人が男か女か、書かれた場所がイギリスかアメリカか、書かれたのが一九六〇年代か一九七〇年代かで仕上がりが全然違ってくるのだという。

 そういう話を聞くのも、僕は決して嫌いではない。そういう話をしている時のソラちゃんが、とても楽しそうだからだ。エピックファンタジーとかマジックリアリズムとか、専門用語だけは僕も憶えてしまった。ただし説明は出来ない。

 ソラちゃんにはオシャレな友達が男女ともいっぱいいるけれど、こんなマニアックな話に付き合ってくれる人間は僕しかいないのだと思う。有名人やアイドルがアニメやゲームにハマっている話はもう珍しくないけれど、ファンタジー小説マニアというのは聞いたことが無い。それくらいマイナーな趣味なのだろう。頑張って欲しい。

私にラノベは無理だから

 さて、ソラちゃんはファンタジー小説をいっぱい読んでいるだけの人ではない。自分でも書く人だ。セックスの最中に僕が見るどこかの風景の話が単なる賢者タイムのピロートークで終わらなかった理由は、これだった。

 嫣然と微笑んだソラちゃんは、布団にくるまりながら僕を見上げている。

「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」
「ええと、どう言ったら良いのかなあ。あの、セックスってほら、色々あるでしょ」
「色々って?」
「正常位とか騎乗位とか……」
「体位のこと?」
「もうちょっと細かいの。何て言うんだろう」
「セックステクニック?」

 セックステクニックなんて真顔でソラちゃんに言われると、どうにも照れてしまう。

「それもちょっと違うかなあ」
「じゃあ、何なの? 具体的に説明してよ」
「そうだなあ。例えばあの、僕が仰向けに寝転んで口でしてもらうことがあるでしょ? その時、どこかの池が見えるんだ。池というか、あれは何だろうな。公園の中の池」
「池? どういうこと? いつも見えるの?」
「たぶん」
「他には?」
「正常位で動いてると、どこかの神社の鳥居が見える」
「神社? 鳥居? 正常位で?」
「うん」
「さっきしてた時も見えた?」
「見えた」
「その二つだけ?」
「なんか他にもあった気がするんだけど、よく憶えてない」
「え~」

 ソラちゃんは露骨に不満そうな声を上げると、掛け布団にくるまったままベッドの上でごろりと一回転した。

「でもさ、それ、やっぱり面白い。ファンタジーっぽさがある」
「これのどこがファンタジーなの?」
「だって普通思いつかない設定じゃない?」
「設定じゃないんだけど」

 ソラちゃんはクスリと笑った。

「ファンタジーには白昼夢って意味もあるんだよ」
「白昼夢って何だっけ?」
「目が醒めた状態で幻を見ることかな」
「ああ、じゃあファンタジーかもしれない」

 僕はあたかも賢者のように淡々と答えた。

 僕を見ているソラちゃんは、相変わらずのハッカーの目つきだ。口元は掛け布団に隠れているからわからない。きっと、ほくそ笑んでいるのだろう。

 しばらくして、ソラちゃんが宣言した。

「決めた。それ、もらう」
「もらうって、どういうこと?」
「次の公募に出す小説のネタに使わせてもらう。日本ファンタジー文学新人賞」
「あの……ええっと、確認したいんだけど」
「はい、どうぞ」
「これから小説を書くの?」
「うん」
「ファンタジー小説を?」
「うん」
「それを、何だっけ、ファンタジア大賞?」
「日本ファンタジー文学新人賞! ファンタジア大賞ってラノベの賞じゃなかった? 私にラノベは無理だから。書けないから! 専門外だから!」

 虎の尾を踏んでしまった。凄い剣幕だ。僕は平静を装うのにかなりのMPを使うことになった。

「……に、出す」
「そう」
「僕がセックスの最中にどこかの風景を見る話を?」
「そのままでは書かないけどね。セックスの最中に風景が見えるって設定をもらうの。調べたら色々と出てきそうだし。もしかすると、何かのお告げかもしれないよ?」
「はあ」

 賢者のセリフとしてはかなり間抜けになってしまったが、それ以外に返事のしようがない。きっと冗談だろう。ソラちゃんには独特のユーモアのセンスがある。僕はちょくちょくそれで手玉に取られているのだ。何しろ魔女さまだから。

 そう思って僕は横になった。ソラちゃんが掛け布団にぐるぐる巻きになったままなので、僕はセミダブルの掛け布団の端しか使えなかった。でも、しょうがない。レディファーストだ。

 さて、この時の僕は一つのよく知られた事実から目を背けようとしていた。

 ソラちゃんはファンタジー小説に関しては絶対に冗談を言わない人である、という事実から。

(第一章 了)

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