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発達かトラウマか、どちらが白でどちらが黒かもわからぬグレーの中で

発達性トラウマという概念がある。
近年提唱されたもので、子供が育つ過程で、虐待やそれに近しい体験をした場合、発達障害に酷似した精神・身体の症状が出る。
発達障害は、生まれつき、先天的な脳機能の偏りであるが、発達性トラウマは、後天的な生育環境により、発達障害のような特性や困り事を人にもたらす。

私はそこんとこ、微妙な人間である。
発達障害でみられる症状はあるが(例:不注意、過集中、段取りが組めない、対人関係の困難さ)、障害と呼ばれるレベルの深刻さはない。
また、症状の出方も日によってムラがあり、全く出ない時もあれば、出まくってダメダメな時もある。

念の為、病院で発達障害の可能性があるか、ないかの切り分けのために知能検査(WAIS)も受けた。
「こりゃー、発達の可能性ありですな、もうちょっと深堀りして検査してみましょうか」という結果は出なかった。確かに検査結果の数値に、基準値から外れているところはある。だからといって、発達障害とも言いきれないレベル。
検査を担当した心理士さんは、私の症状について、発達障害(=生まれつきの脳の特性)以外の原因も考えた方が良いとのコメントだった。心療内科の主治医は、当初ASD疑いで検査をオーダー。結果については、発達障害と断定できる訳では無いけど、取り扱いが難しい性質を私が持っているのは確かで、自分に合った環境を模索していくしかないと。

ここで、心理士さんの言う「発達障害以外の可能性」を探してみた結果、私は発達性トラウマの概念に出会った。

まず、入口としてはこちらの本。発達性トラウマというものがあるのだよという説明と、根拠になった文献が複数提示されている。

発達性トラウマの存在をまず知ったなら、こちらを一読してみないことには話が始まらないようだが、申し訳ないことにまだ読めていない。。。

しかし、発達性トラウマを人が負う主な要因は、子供の頃の虐待や、虐待に近い酷い扱いだ。私はそこまでの経験はしていないぞ、と思う。三食出てくる綺麗な家に住んでいて、親から身辺の世話はきちんと受けていた。習い事や塾にも、大学にも行かせてもらい、教育もきちんと受けさせてもらえた。
元ヤンキーのオラオラ父&ぼんやりおっとり母は、言われてみれば、少々性格に癖のある人だった。しかし、彼らなりに、親の責任を果たそうと真摯であったことはよく分かる。こんな暮らしで、どこにトラウマが?

と思ったところ、こちらの本では、経済的・物理的に充足していても、子が親から情緒面でのケアが受けられないケースでも、やはりこの精神にダメージが生じることを解説している。

また、監訳の岡田尊司さんの本は、発達性トラウマによる症状と、発達障害による症状の微妙な見分けの参考になる。

そして現在、私は発達性トラウマの線で、心理士の先生による治療中だ。心理士の先生から数度のヒアリングを経て、トラウマ治療の適応があると判断された。

とはいえ、物事はそんなに簡単では無い。
私の社会生活に支障をもたらす諸症状が、先天性のものか後天性のものか、はっきりこれと診断するのは難しいと、自分でも思う。

診察室の先生のデスクの上、発達性トラウマ/発達障害の2つのイモバンがあって、いやこのペーパーレスの時代になにをイモバンの話をしとるんだせめてハンコ屋さんに作ってもらったゴム印ぐらいにしとけ、などとどうでもいいことを差し挟んでさてなんの話しをしていたか。
そうそう、発達性トラウマ/発達障害のハンコが2種類あって、診察の結果、あなたは発達性トラウマですパァーン!あなたは発達障害ですポォーン!と、どっちかのハンコをカルテにバチッと押して進む話じゃないと思うのだ、本件は。

心理カウンセリングでは、子供の頃の癖強親との生活を振り返り、あなたの過去の経験は、傷ついて当然のものですよと諭される。私が他者とのコミュニケーションに困難を感じるのは、癖強親との生活で培われていった恐怖由来だと考えると、辻褄が合っていく。
医師も、トラウマのフラッシュバックに効く漢方薬を処方してくれた。

一方で、幼少期から「変わり者で神経質」と周りの大人に評されていた私が、周囲の人間を戸惑わせていたことも、想像がつく。子供の私が訴える不安や不快に、「なぜ、そんな些細なこで不安がるの」と、周りの大人が理解出来ず苛立ちを覚えるのも、当然だと感じる。
周りの理解を超えた、私の変わり者で神経質なところが、もしかしたら発達特性であった可能性もある。

過去のトラウマに焦点を当てたカウンセリングを受けていると、自分が何か狡く卑怯なことをしている気にすらなる。
私に治療が必要なレベルのトラウマをもたらした、周りの人間や世界との齟齬は、本当は、私の発達特性を原因とするものでしかなく。周囲の人々は、その人なりに良かれと思って、私と付き合おうとした。しかし、私の側が真底困った人間だったので、周囲が疲弊した。
生まれつきの発達特性は、私が原因。後天的なトラウマは、周りの人間や環境が原因。ならば、私はただ、自分が周りを困らせる人間だという事実から逃げたくて、自分の苦しみを誰かのせいにしたくて、自分の状況を、恣意的にトラウマの形に整理して、うまく語っているだけではないか。

まあ、苦しみの原因がどちらであれ、苦しんだ先の自分の人生をどうコントロールするかの責任が自分にあることは、変わらないが。

ともかく、実感として、発達障害と発達性トラウマを分ける、明確な境界はない。白黒つかない、グレーゾーンの中に、私の苦しみはある。

だとしたら、重要なのは診断名ではない。
グレーゾーンの中にある苦しみと自分自身がどう和解するか、その方法探しだ。

発達障害にみられる症状が自分にあるならば、カバー方法を考える。不注意はリマインダーの活用。忘れ物は、物の置き場所を決めるなど、忘れない仕組みの構築。
他人とのコミュニケーションは、ひたすら他人の観察を続け、挨拶のタイミングや方法、会話のキャッチボールのやり方を学んできた。
他人の発言や挙動を歪んだ認知で捉えてしまうのは、カウンセリングで修正。不安が強いと認知の歪みが出やすい(逆に精神が安定していると全く出ない)ので、そこは薬の力も借りる。
疲れやすさも処方薬(SNRIと抗不安薬)でカバー。フラッシュバックは神田橋処方で。
生育歴由来の強い不安感は、カウンセリングで整理。私はEMDRも現在受けている。

「私は〇〇障害だから」という自己認識をさらに進めて、「私は何障害かははっきりわからんけと、こういう人間で、これが得意で、ここは不得意で」でと、自分を細かく解析した上で、自分との付き合い方を模索していくしかないと、感じている。診断はあくまで、困った自分の自己分析と模索のヒントでしかない。

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