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第1回「どういうときに生きづらさを感じるか、感じてきたか」まとめ

こんにちは。本田です。
おそくなりましたが、3/20(金・祝)に開催させていただいた第1回「名前のないつどい」で話し合って特に深まったこと、そこから僕自身が何を感じたかをまとめました。ちょっと長いですが、興味がある方はお付き合いください。(個人の具体的な経験談は掲載しないよう、細心の注意は払っています。)

模造紙ぼかし

*当日の会のながれ

ボードゲーム→自己紹介(紙に書いて回し読み)→テーマについて語り合い


① 集団になじめないことついて


集団になじめているかどうかの判断基準について、話しあいました。そもそも、なじめているかどうかというのはどちらかといえば主観的な感覚であり、自分はなじめていないと思っていても周囲はそう思っていなかったり、その逆のパターンもあります。案外、自分自身が「なじむ」ことに対してハードルを高く設定しすぎているのではないか、という意見もありました。また、印象的な意見として、「自分が場になじめているという実感が得られているか否かは、その場において自分の言いたいことが言えているかどうかで決まるのではないか」というものがありました。個人的には凄く腑に落ちたというか、これ、ほぼ答えなんじゃないかなとも、思いました。言いたいことを言っても受け止めてもらえるだろう、という信頼感を場に対して持てている状態のとき、なじめているということなのかもしれません。確かに、僕自身は居心地が良いと思える場所では大抵、言いたいことが言えていますね。もちろん周囲からの視点だと、必ずしもそれがなじめていると言えるかというと、そうとは限らないとは思います。じゃあ、もし周囲が自分のことを良く思っていなかったら…? そんな疑問が湧いてくる限り、なじめているという実感は得られないものなのかもしれません。ただ、会の中では話していないのですが、ただ「居心地が良い」のと、「なじめている」のとはまた別のことなのかもしれません。独りよがりな「なじめている」という実感は、いずれ集団からの制裁を受けるおそれがあるため、一概に良いとは言えません。主観的ななじみ具合と客観的ななじみ具合がある程度一致していないと、結局はその場に安心していられなくなる可能性が高いのです。それらが一致しているのかどうかを正確に知ることは、究極を言えば不可能です。結局はそれが直感に委ねられてしまう、ということが生きづらさを産み出しているのかもしれません。


② 虚無感と生きること


(※正直なところ、このテーマはまだまとめられる段階まで行きついていないなという感覚です。文章に纏まりがないと思いますが、ご容赦ください。)

生きていると、特に理由はないけれど、漠然と虚しい気持ちになることがあります。この気持ちはどこから来るのか。
面白かった意見としては、「ネガティブ(=マイナス)な感情になるのを回避するために、虚無感(=0)で自分を守っている」というものがありました。そう考えると、虚無感ってゼロではなくて実質マイナスだとは思うんですが、あえて無と表現するのはなぜなのか。少なくともポジティブな意味合いで虚無という言葉はあんまり使われないとは思います。
個人的な意見としては、やっぱり「漠然としている」のがポイントなのかな、と思います。言葉にするのが難しいから、それだけに他者と共有するのが難しい。おそらく虚無感という言葉で表現されている感情は幅広いため、各個人それぞれの虚無感があるのかな、と思います。
また、関連するテーマとして、そもそも生きる必要があるのか、という問いも立てられました。実際には別に生きたくて生きているというよりは、死の苦痛を感じるよりはマシだから生きている部分もあるのではないか、ということですね。また、生きることに対して、なんとなく期待してしまっている自分がいるのも否定はできない、という声もありました。今は良いことがなくても、この先に何か良いことがあるかもしれない、だから今死ぬのは「もったいない」、といった感覚ですね。僕はこの感覚が強いような気がします。あんまり前向きではないのですが。
なんとなく、前向きに生きようとは思えない、でも死のうとまでは思っていない状態の時に虚無を感じやすいんですかね。
これらのテーマはまだ話し足りていないような気もするので、もう少し纏まったら改めて書きたいと思います。


③ 成長について

僕が出したお題です。僕は漠然と「成長したくないけど、周囲から成長を求められている感覚」に悩まされています。で、そもそも成長とはなんなのか、という話になっていきました。
僕がここで言う成長とは、「学校や職場などといった集団社会で設定されている、一定の年齢や経験に連動した達成すべきラインに向かって自分を高めること」だと、話し合っているうちに分かりました。要するに、世の中的に求められている成長というのは、凄く限定されたものなんだなと思います。分かりやすいもので言えば、「コミュニケーション能力」とかですかね。しかも、その成長度合いを周りから監視されているような感じがする。「その年齢にもなってそんなことも知らないのか」「これだけ長くいてこんなこともできないのか」こういった言葉で成長を強要されているような感覚が苦痛だったりします。
また、それだけではなく、周囲からの成長期待(あるいは監視)というものは、ある時点で終わり、というものではなく、いつまでも続きます。一つ達成したら次の目標が立てられる、ということが繰り返されるため、成長し続けなければなりません。この際限のなさに対して、気の遠くなるような絶望感をおぼえる時があります。
じゃあ、本当に成長したくないのか、と聞かれると、実はそうではないのかもしれません。自分の中でなりたい像というものはあります。ただ、それは必ずしも社会に求められているような像とは限らない。あくまで、社会に求められるような成長にあんまり興味が湧かないな、というのが正確な表現なのかなと思います。
今の社会で求められる像というのは、「いろんなことがマルチにできるようになる」ことだと僕は思っているのですが、どちらかといえば僕は「できるようになりたいことだけ努力すればいい」と思っています。「できる」ことと「できない」ことの間に優劣があるのではなくて、ただ違いがそこにあるというだけだ、と思いたいところです。
また、これとの関連で自己肯定感の話も出てきました。自己肯定感というと、自信を持つこととイコールで考えられられやすいですが、そうではなくて、できない自分でも「それでいい」と肯定できることなのかなと思います。これは①の「集団になじむこと」とも関わってくると思うのですが、なじめているかどうかというのは、主観による部分が大きいので、自分を肯定できているかどうか、というのも大きいと思います。自己肯定感については今後も深めていきたいところですね。


④ 家族への感謝について


他者から親への感謝を強要される。いわゆる「毒親」持ちには苦行とも言えるようなシチュエーションです。でも、こういう場面って、意外と多くの人が経験しているのではないかと思います。
家族関係でしんどかった経験を他人に話すと、「自分の子どもを嫌いな親なんていない」「親への感謝が足りない」といった返答もよく聞きますが、それも本当かどうか疑わしいところです。家族愛というものが、人間に本質的に備わっているもの、という前提で話が進められることも多いですが、それによって助けを求められなくなる人も少なからずいるのではないかと思います。家族愛というものは、メディアや創作物からのメッセージで好意的に受け取られやすいため、むしろ社会全体が、「家族愛の呪縛」にとりつかれている側面もあるのかなと思います。
生まれる家というものは、友人や恋人と違って選ぶことができません。その意味で、家族関係は他の人間と比べて、良くも悪くも強いつながりになることが多いと思います。(幼少期は特に)
良い家族関係・家庭環境に恵まれて育ってきた、という自覚がある人こそ、世の中にはいろんな家族の形があるということを意識しておかなければならないのかな、と思います。また、本当に自分の家庭環境が良かったのか?ということについても考え直してみても良いのかもしれません。「家族への感謝」でぼかされていた苦痛が今でも根強く残っている、ということもあるのではないかと思います。
感謝というものは強要されるものではなく、自然と湧き上がってくるものではないでしょうか。そういう意味では、自ら湧き上がってきた感謝を親や家族に向けることは素晴らしいとは思いますが、感謝できないことまで無理に感謝に変換しようとしなくてもいいのかなとも思います。


まとめ

 
こんな感じで、いろんなテーマが出てきましたが、まだまだ深められそうだな、といった印象でした。また、どのテーマも、どことなく自分に引っ掛かる部分があるなあという感覚もあります。この、自分との共通点をちょっとでも見つけていくのが大事なことなのかな。
これから回数を重ねていく中で、さまざまな生きづらさを繋げて考えていけたらと思います。


会の進行について補足


自己紹介の方法を、「紙に書いて回し読み」という形式で行いました。(要は、口頭での発表をしない形式でした。)これが個人的にはなかなか良かったです。まず、口頭での発表はいつもちょっと緊張しますし、それによって他の人の自己紹介を聞く集中力も削がれてしまいます。今回のやり方だと、人前で話すことに対する緊張もなくなる上に、他の人の自己紹介もじっくり読むことができて内容もしっかりと入ってきました。また、自分としても紙に書いた方が内容を整理できるため、より伝えたい形で自己紹介が出来ました。この自己紹介のやり方は今後も続けていきたいです。(吃音や場面緘黙等の自助グループにもオススメします笑)


おかゆの振り返りイラスト

第1回振り返り

ボードゲームはキャメルアップ(2019年版)をやりました~

アイスブレイクのつもりでしたが、かなり盛り上がってうれしかったです


次回
当初GW明けを考えていましたが、コロナもありますので、ちょっと先になりそうですね… また決まり次第お知らせします。

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