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生きてるだけで、愛

本谷有希子著『生きてるだけで、愛』に寄せて。ネタバレを含みますのでご注意下さい。


冬、夜、屋上。背景は首都高。オレンジ色の光の真ん中で、全裸の「あたし」が白く光っていた。

 ✳︎

名古屋を出る日の午前三時。混乱したまま辿り着いたバーで、隣に座ったその女の子は笑顔を向けて言った。

「安心だね」

輝きをもったままきれいに細められた目。おだやかに上げられた口角、ふっくらした頬。安心という言葉が、心から静かにとび出して顔に広がった、そんな笑顔だった。

「そうかもしれないですね」

答えながら、そうか安心なのか、と思った。仕事をして、寝て起きて、仕事をする生活。一週間に一日あったらいい方の休日には、身体が動かない。毎日毎日、大好きな音楽の仕事をしているはずだった。もう音楽が好きかどうかすらわからない。抜け出さなければ死んでしまう、そう思って、一番の原因であるモラハラ社長と電話でやり合ったのが午前零時。今日から無期限休職、という話に終着したのが午前一時。溜まりに溜まった社長へのストレスを同僚や上司に吐けるだけ吐き、最後の挨拶をして、職場を出た。

今日から休職。そうか、もうめちゃくちゃな仕事をしなくて良いのか。昨日まであんなに毎日必死にやっていたのに。社長の言葉も声も聞かなくて良いのか。どれだけ必死に心をふさいでも、毎日どこかに抉り傷をつけられていたのに。そうか。本当に? 頭の中で休職の文字がぐるぐると回ったまま、通い慣れたバーのカウンター席に座った。今日から休職、そうか、ならとにかく名古屋を出よう。実家に帰ろう。

「実家って、何も考えずに一日過ごせるじゃない。親に会えるし、弟もいるんでしょう、私もいるよ。ご飯を食べて、お風呂も済ませて、大体みんなが先に寝ちゃうじゃん。そのあとみんなの寝息を聞くのが好きなんだよね。で、自分も布団に入ったときくらいに、なんかちょっと感動する。実家に帰るのって、安心だね」

笑顔から安心を吸収するかのように、女の子の顔をゆっくり眺めながら考える。明日から仕事をしなくて良い。実家に帰る。実家に帰ったら安心できる。ぼろぼろの身体を安心させる。ぼろぼろの心が安心する。頭を回る休職の文字が、速度を落としていった。

「楽しみだね」

「素敵だね」

「幸せだね」

曖昧な返答しかしていないのに、女の子があたたかい言葉を並べていく。言葉と一緒に、あたたかい笑顔が何度もこちらに向けられる。初対面の人を、こんなにも肯定することができる人間もいるのか。驚きの感情がふっと持ち上がり消えていく。そのあいだにも、女の子の言葉が疲れ切った身体に沁み込んでいった。

「本当に素敵な方ですね。今日出会えてよかったです」

話の脈絡を無視して、思ったままの言葉を発した。できるだけ同じ笑顔を作ろうと努力したが、固まった表情筋はほとんど動いていないだろう。

「そんなこと言ってもらえるなんて。ありがとう」

安心の笑顔を少し驚かせて、女の子は言った。そして、一冊の本の名前を口にした。音声として発しただけだったが、実体をもった何かを手渡されたような感触がした。

『生きてるだけで、愛』

 ✳︎

実家に帰って数日後、本屋へと向かった。事前にインターネットで調べたその文庫本の表紙は、ピンク色の葛飾北斎だった。背表紙を見つけ、棚から抜き出す。薄いその本を右手にしっかりと持ち、ピンク色をぼうっと眺めた。ゆっくりと口角が上がり、目が細くなった。

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一番最後の「。」までしっかりと目の焦点を合わせ、文庫本を閉じる。冬、夜、屋上。背景は首都高。オレンジ色の光の真ん中で、全裸の「あたし」が白く光っていた。

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